2011年6月3日金曜日

今日の想い 318

多くの批判を浴びながら、それでも書き続けることに意志を差し出したのは、個体的動機として自分自身を粉々に砕くためだ。打たれて粉々に砕かれて、それでも残るものが私の中に見出せるなら、それこそが明日へと生き延びる私だろう。書き記していることが正しいのか間違っているのか、善と捉えられるのか悪なのか、それは受け取り手が決める範疇のことで、私は受け取り手の判断を変えようとも思わなかったし説得もしなかった。そんな力も位置も無い。ただただ批判をそのままに受け取って私の中で消化するだけだった。全体的動機としては、書き記した私自身の表象に対して同調を得たいという思いを否定して、批判の矢面に立とうとも受け取り手の深く思考することの動機となり、意識の光を当てる機会となれればそれでいいと思った。み言葉はみ言葉そのままに受け取るべきで、付け加えるべきでも差し引くべきでもないと言うのはその通りだ。しかし悲しいかな堕落的なものがフィルターになっていて、御父様が意味されるみ言葉そのままには受け取れないでいるのが私たちだ。私は私のみ言葉の理解によってのみ、私の思考、感情に光をあてて表象することができる。だから私の理解が未熟なものであれば、表象も未熟なものであるのは当然だ。批判を浴びて当然だという位置に立たなければ、日記といえども皆の目に晒すべきではないだろう。統一食口は日記を書くようにと御父様が話されたけれども、公に晒せば既に日記とは言えないのかも知れない。それにしても私の記述が物議を醸すほどになっているとは思いもしなかった。確かに私自身も書き続けることだけが優先されてきて、周りが見えなくなっていたのかも知れないし、自分自身もバランスを失っているのかも知れない。以前一度区切りを付けようと思ったことがあったが、その時は言い訳が先に立ち自分自身に対して何とも納得がいかなかった。D-DAYまでが一つの区切りだとは思っているが、私に異を唱える人々の感情も多分に受け取り、それを消化できずに抱え込んでしまえば潰されそうになる。

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