2011年6月1日水曜日

今日の想い 315

私がいてもいなくても神様は神様であり御父様は御父様だ、自分のなかでそう結論付けた訳ではないけれどその気分に漬け込まれていないだろうか。私が歩もうが歩むまいがみ旨成就は私と関係の無いところで為されていく、と思っていないだろうか。私が笑えば神様も笑い、私が泣けば神様も泣く。私が意識することを神様も意識し、私が手を付けることで神様も手を付けられる。私が失敗すれば神様も失敗し私が勝利すれば神様も勝利する。それが私は私であると言い得る自我を供えた私の中心的気分だ。確かに復帰歴史に於いては中心人物が立てられ、彼らはそれぞれの摂理に於いて中心的役割を果たしてきた。中心人物を他の者に置き換えることも比べることも出来ないほど、彼らの役割は大きかった。しかし旧約時代の中心人物と新約時代の中心人物との役割の違いは明らかで、更に成約時代に立てられる中心者、特に蕩減の時代を超えた後天時代に立てられる中心者の意味合いはまるっきり違ってくる。旧約時代に於ける人間の在り様は今の意識基準から大きくかけ離れ、彼らの中に私は私であると言い得るほどの自我は備わっていない。人間性の復帰が段階的に為されて自我はますます明るくされて今に至っている。特にイエス様が地上に来られて愛を説かれた対極の意味合いは、自我に光を当てられたことによる自意識の強烈な目覚めだ。より高い愛への認識はより深い自我の意識と対になっている。復帰された兄弟達もそれぞれの内的霊的内容によるけれども、自我の明るさと私が神様を左右する中心の位置にいるという認識とが対になっている。全体の勝利が私の勝利でもあり、私の勝利が全体の勝利でもあると言える中心位置にいる私なのかと問うことが、私の自我の明るさを測ることであり、私の自我は神様の心情に直結している。中途半端な明るさで自己中心、自己保身に陥るのではなく、全てを明るみに晒すみ言葉の光で神様に直結している自我を認識することだ。そうすればぐだぐだと意味もない理由付けをして、御父様と距離を置く私になることはない。誰でもないこの私でなければ神様は救われないし御父母様も報われない。傲慢とも取れるその中心的意識を統一食口は備えて捨てるべきではない。

0 件のコメント: