2011年6月9日木曜日

今日の想い 322

希望は与えられるものではなく自らで見出すものだ。暗闇の中に僅かな希望の光を捉えた者が、その光の光源を手繰り寄せていくことが出来る。闇夜に六等星、七等星を探し当てるように、有ると言えば有り、無いと言えば無いとしか言いようが無い状況でも、それでも有ると信じて諦めずに求める力、その力を備えた者が僅かな希望の光を見出し、手繰り寄せながら希望の実体を手にすることが出来る。信仰を持つ者であれば、食前のお祈りを捧げるように、全ての与えられる事柄に対する感謝の想いを捧げようとする。普通自分に益となるという認識の上で感謝を捧げるけれども、しかしその認識は私の感情に捕らえられている場合が殆どだ。痛いとか苦しいとか、その嫌気気分に左右された認識に立てば、自己の感情を超えた事柄に対する感謝は捧げられない。希望の光を見出そうとすれば、この自己の感情を超えなければならない。闇の中を手探りしていけばありとあらゆる感情を味わい続ける。闇とは静かな深淵だと思うのは外から眺めた状態を言うのであって、その中に飛び込めば逃げ出したいほどのありとあらゆる嫌気感情が渦巻いている。全ての嫌気気分を甘受しながら、荒れ狂う感情の渦の中心に光は点在する。様々な嫌気気分に幾重にも被われ、曇らされ、闇に隠されるように希望の光は点在している。私達は感謝できるものを感謝するのは当然のことだ。そんなことは誰にでも出来る。私が統一教の信仰者であると誇らしくも自認できるためには、感謝できないものを感謝する力、感情を超え感情を説得して暗闇を恐れない力を私の中に備えて大きくしていくことだ。私の感謝できる力は、私の謙遜な心情と対になっていて、より感謝できる人はより謙遜な人だ。そして感謝の人で終わるのではなく感謝できる力を希望の光を見出すことに使わなければ、神様の創造性を備える人間理想とは異なり、自己満足的な信仰観に没してしまってただ御父様の高みを見上げるだけの存在で終わってしまう。御父母様と共に天国に入るとは言えないだろう。

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