2012年2月4日土曜日

今日の想い 383

妻が移植手術を受けてから、既に六年目に入ろうとしている。何度も何度も身体の不調を訴えながら、何度も何度も遠方にある病院を往復しながら、何だかんだ言いながらも六年目を迎える。健常者の血液数値には程遠くても、それでも低い基準だけれども何とか安定している。数年を経て、私自身が当時の心の混乱ぶりを忘れかけているように、最近の子供の態度や言葉からも、当時彼らが味わった切実な思いを忘れかけているのがわかる。あの時、六時間にわたる移植手術を終えて、集中治療室で疲労と痛みに喘いている母の為に、子供ふたりを連れて広いメディカルセンターの中を拠点を決めて順番にお祈りして回った。決して信仰が魂に根ざしていた訳ではない彼らが素直に父の指示に従ったのは、彼らなりに切実なものがあったからだ。あの時のことを思い出して、忘れることなく心に深く留めておいて欲しい。おそらく初めて味わった、子が親を想う気持ちの切実さを、これからも持ち続けて欲しい。彼らに実感として刻みつけた、痛みさえも伴うあの心の体験こそ、直接に彼らに問いかけ働きかけた神様との貴重な出会いの記念すべき瞬間だからだ。そして生きることの深くも重い意味を、魂の中で尋ね続けて欲しい。その土台でこそ、祝福子女として神様の血統圏で生を受けた本当の意味も見出せるだろうし、感謝の感情も実感できるようになるはずだ。死を遠ざけることなく、常に死を傍に置いて生きる。実際自分と自分の周囲も常に死に向かっている訳だし、誰でも確実にその時を迎える。生があって死が認識されるように、死を踏まえてこそ生は生として活きる。死を迎える時に心置きなく旅立てるように、そして送る者は心置きなく送れるように、その準備は生を受けたときから始まっている。今は、死という言葉に含まれる暗くて否定的で堕落的なものから、昇華を踏まえて聖和へと、祝福的言葉が与えられている。

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