2012年2月6日月曜日

祈祷について

全体祈祷で皆が声を張り上げて祈る状況は、アメリカではあまり見かけることはない。日本で復帰され日本で統一信仰のいろはを学んだが、この全体祈祷の雰囲気にはなかなか入り込めなかった。皆が声を張り上げながらお祈りすると、全体の祈り声が合わさって渦を巻いて構内室内をうねり、ウォンウォン響いて腹の底まで揺さぶった。圧されて負けまいと集中し直し声を大きくして挑むのだけれど、さして祈る内容があるでもなく、周囲ほどに感情が高められるでもなく、無闇に口に出しても言葉は空しくかき消されて、結局押し黙ったまま殆どの時間を過し祈祷を終えるという感じだった。こんな状態でお祈りして神様は聞く耳を持たれるのだろうかと、随分次元の低い疑問が頭の中で回っていた。神様の存在を認識し、神様との関係を正し、神様との距離を縮める為に祈りは大切だ。しかし祈りの言葉を頭を巡らして引き出したり、私の感情が付いて行かない、要するにわかっていない摂理に対しながらも恰も切実な願いであるかのように演じたり、そういった作為的なものは祈りではない。祈りは神様を対面につかまえて、私の内面から出た言葉を繋いでこそ祈りとなる。公的祈祷は別として、個人的祈りは対話の主体である神様を捕らえない限り、兎に角言葉を口にしようと思って無闇に焦らないほうがいいだろう。作為的祈りが習慣化すると、信仰はどんどん形式的なものに固まってくる。いつのまにか神様抜きの独善的信仰観が備わり、歩んでも神様との出会いはなく、そしてそれが当たり前になってしまう。み旨を歩む外的な忙しさに翻弄されてきた食口は、結果として内的なものが疎かになってしまっている場合が多い。だから今の主体的信仰が要求されながらも(宗族メシヤ、氏族復帰は主体性がないと為せない)、何をやったらいいのかを教えられるまで待ち続ける受身信仰から脱却できないでいる。真の御父母様という言葉も、形式的祈り、形式的意味で使い続けてきたから、言葉のもつ意味のままには受け取ってはいない。別の言い方をすれば、真の御父母様と口にするとき新鮮さを欠いている。ひとつ私が提案したいことは、お祈りでも今まで通り、前置詞や接続詞のように口を開ければ天の御父様とついて出てきた言葉に、敢えて、私の、とか、何々家庭の、とか入れてみるとそれだけで距離は縮まってくる。また公には言えないけれども、生活の中で呼びかけるには天の父ちゃんでも天の親父でも形式的な呼び方よりは感情移入されて神様も相対基準が合わせ易いのではないだろうか。私の神様を捕らえ、私の御父母様を捕らえない限り、私の中に霊的柱は立たない。霊的柱が立たなければ私が主体になれず、霊界から協助しようにも協助する主体が見えないで先祖達は彷徨っている。

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