2012年2月3日金曜日

愛と執着

相手の為に生きる愛とは、与えて、与えて、さらに与えて、そうして与えたことを忘れて、さらに与え続ける愛。私の中から与えれば、私の中に隙間が生じる。そしてその隙間は、しばらく傷が痛み続けるように埋められることはない。そう人は信じている。私が、私の中の自分自身だとして失いたくないものを与えられないように、誰も私に犠牲を強いてまで与えようとする人はいないと信じている。だから当たり障りの無い部分はいい人面して与えても、本当の意味で為に生きようとは思っていない。その人にとって為に生きる愛は存在しない。犠牲を払って私の中に大きな隙間を生じさせたいとは思わないからだ。人は自分の中に隙間が生じ、ぽっかりと大きな穴が開くことを恐れている。愛する人ができたとき、相手に対する私の愛は本物だと誰もが思っている。そこに自分本位の偽りの愛はないと信じている。愛する人は私の中に存在している。私の中に存在して抱え込んでいる。だから私の中にいる愛する人を失いたくは無い。富は私の中に存在していて、私の中にある富を失いたく無いように。地位も名誉も全ての社会的財産も、私の中に存在していて私を満たしている。だから私の中にあるそれらを失いたくは無いように。失うまいとして抱えた力を強くすれば強くするほど、執着すれば執着するほど、抱えたものは固体化していく。固体化すれば脆くなる。そしていとも簡単に砕けてしまう。抱えた執着の腕をほどいたらいい。ほどいて固体化していた縛りを外し、流れ出すままにすればいい。そうしてできれば敢えて流して差し出せばいい。執着すれば私を生かす主体の存在も執着して、私に流れてくるものは少なくなるだろう。流しだせば私を生かす主体の存在も、抱えた腕をほどいて、私に有り余るほど流して下さるだろう。私は主体の存在に生かされている対象の存在だということを先ず悟ることだ。神様がどんな小さな隙間でもはいっていかれ、全てに浸透されて偏在されるように、魂は本来みずみずしくて、流れ出すほど柔らかいものだ。固体化していた魂が液体化し、さらに液体様相になった魂のある部分が気化していくと、広い世界を包み地球を越えて天宙をも包み込んでいく。それは地球をポケットに入れて歩いているような感覚だろう。入ったものは出て行くように、誰にでも、否応なしに愛する人を失うときが来る。必ず来る。その時は私が去らなければならないのかも知れないし、愛する人が去らなければならないのかも知れない。魂が私の執着のために固体化していると、その試練は自分には耐えられないだろう。愛と執着の違いがわからず、送ることも愛することだという学びをしていないからだ。愛が執着ではなく本当の愛だと言えるためには、送ることも愛だと知って、正しく送りだす必要がある。そのときに、悲しいけれども喜ばしいと言える私になることだ。

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