2012年2月12日日曜日

いつものカフェで

最近スターバックやカフェスタイルの店があちこちあって、みんなコーヒー一杯で好きなだけ長居し、歓談したりパソコンを叩いたり勉強したりしている。出入り自由な為に中にはホームレスのような招かれざる客もいるが、余程のことが無い限り放置され彼らの場を与えることを許している。私も二、三件事務所代わりに使ったりしているが、それぞれの店には常連と言ってもいいそんな客が一人や二人はいて、行けばいつも居座っている。今日入ったカフェもそうで、コーヒーを頼み、適当な隅の席に座ってメールを確認していると、どこからか妙な音程が聞こえてくる。見回すと入り口の直ぐ脇のテーブルに小汚い身なりの六十代男が座っていて、ウォークマンのイヤホンを耳にしている。妙な音程はその男の血色のない唇がその音源だ。耳に入る歌に合わせて歌っているつもりだろう、周りを一向に気にすることもなく、唇を震わせながら喉から絞りだすような不快な音を撒いている。雰囲気から少し気が振れているのは明らかなようで、客は勿論見て見ぬふりをしているし、マネージャーが注意する気配もない。客は時々その男に冷たい視線を浴びせながら、彼らの目には異常に映ってそういう態度を取っているが、本当のところはどちらが異常なのかはわからない。浴びせる視線に愛の衝動としての動機がないのなら、ひとつの堕落的な行為に違いないだろう。人は意識もせずに衝動的に堕落的行動を取ってしまう。自分は社会の常識や道徳規範が見えて備わっているが、あの男には見えないし備わっていないと決め付けている。だから自分の行為は正しいと思い込んでいる。しかし男にすれば社会の常識や道徳規範に縛られない自由な自分を生きていて、それを楽しんでいる。見えていて備わっていると言いながら、実はそれらに縛られている。私達はみ言葉を与えられている。しかしみ言葉を社会の常識や道徳規範に対するのと同じように扱ってはいないだろうか。み言葉がわかっていると言いながら、実はみ言葉の戒め的な面だけを捉えて縛られてはいないだろうか。ああしなければならない、こうしなければならない、ならないことだけに意識を充てて、み言葉が堕落的な枷を外して内的霊的自由を与える、み言葉の本当の力を受け取らないのなら、私がみ言葉を戴いた意味はあるのだろうか。そのカフェの客の殆どは視線を下に落として厳しい表情をしているけれど、その男は歌を口ずさみながら、無邪気に笑みを浮かべて天に視線を向けている。

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