2012年2月23日木曜日

私達の見地

世間から見れば言いようのない馬鹿の集まりだと思えるのだろう。それは別に世間の目から見なくとも、兄弟それぞれが過去を振り返って見ても、自由とは程遠く、基盤として残せたものは何もない時代を歩んできたという気分がある。そう感じるとき、今やっと目が覚めたと言えるのだろうか。それとも天を感じていた感性が塞がれて、地上的視野しか見ることができない私に墜ちてしまったと言うことなのだろうか。日本での歩みを経験した者であれば、統一教会として批判される以前に個人が責任者から批判され、責任者の批判を直接受けとめて、それに従うのが当然だった。責任者の前に自分の言葉など持つべきではなかった。当時は言われるままに任地に降ろされ、言われるままに行動して、その結果さえも批難されて、そうやって自己否定は徹底される。そこには自分の思考も無視され、押し潰されるような苦しい感情も放っておかれ、それでも逃げずに喰らい付いたけれども、あの頃の意志はどこから湧いたのだろうと不思議に思う。確かに外的に残せたものは少なくても、その当時の自分は愛おしい。悩み、苦しみ、押し潰され、地獄の底をひとり歩んでいた当時の自分が涙が出るほど愛おしい。そして同じ境遇を生きて、それぞれの地獄をひとりで歩んでいた兄弟達も愛おしい。その愛おしい想いは、自分の想いというより神様の想いとして私の中にある。自分自身に対してにしろ他の食口にしろ、愛おしい想いが溢れるとき、神様は私に訪ねて入っておられる。何の基盤も残せなかった拙い歩みであったと自分は思っても、神様は、み旨を共に歩んでくれ訳もわからずに差し出してくれた私達の当時の犠牲を、涙を流して受け取っておられる。御父様が宣言される勝利圏は、内的霊的なものであって外的地上的なものとは異なる。勝利と判断される御父様の見地と、教会は何ら基盤は築かれてはいないと外的判断に拠っている世間の見地。私達はその中間の見地に立って世間の見地を引っ張り上げる立場にある。世間は私達を仲保とし屈服しなければ引き上げられない。その点に於いて、祝福中心家庭は重要な位置に立つ。私達が差し出した内的犠牲は、一粒たりとも捨てられてはおらず、御父様が宣言される勝利圏の土台の一つに数えられている。溜息をついて、自分の見地を世間に委ねてしまうのではなく、御父様に従ってきた実績への誇りを魂全体に満たして、世間の見地を引き上げていく。

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