2012年2月25日土曜日

生きた思考

思考は頭だけでなされると思っている。しかし頭で思考していると思えるその思考は、ほとんど思考の屍に過ぎない。屍に過ぎない思考を遣り取りしていれば本来の思考の力は受け取れない。生きた思考は創造する。生命を誕生させ、維持し、育むなかには生きた思考が働いている。自然や宇宙の生命力には生きた思考が働いている。芸術家は頭で考えることを辞めなければ、新しい創造は出来ない。色彩感を生きた思考の道具とし、音感を生きた思考の道具とするためには、色彩感や音感を、考える頭から切り離さなければならない。頭から離れた色彩感が道具となり、頭から離れた音感が道具となって、高次の思考を受け取り、芸術的創造がなされる。発見して発明する閃きには、頭の思考だけで生まれると思っているけれど、指が思考し目が思考し、耳が思考し鼻が思考している。正しく言えば生きた思考の道具になっている。技術大国日本は指の思考に長け、指を通して生きた思考が働いている。資産を増やすという意味で経営手腕に長けた者は、実は鼻がよく思考している。勿論、鼻が思考する為の材料はいろんな感性を通して情報として集めてこなければならないのだが、文字通りいろんな事に鼻を突っ込み、鼻が熟練を増せば、利の匂いを嗅ぎ分けてこれるようになる。堕落人間は知覚感覚を無意識的にも自己中心的にのみ使っている。知覚感覚を私という枷から自由にすると、溢れる生きた思考が内面に届く。知覚感覚がそうであるように、私が感情するのではなく、天が感情して私の感情魂が共鳴することを心情として受け取っている。私が思考するのではなく、天が思考して私の思考魂が共鳴すれば叡智として受け取ることができる。み言葉がみ言葉として、即ち天の叡智、生きた神様の思考として受け取るためには、私はどういう姿勢であるべきか。

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