2012年2月7日火曜日
今日の想い 384
ラスベガスの地を再び踏まれて、天和宮からの映像が届いた。あれほど笑っておられる御母様の御姿は始めて目にした。それまでの経緯が見えないので、どういう状況なのかは良くわからないが、笑い転げるという表現は失礼だとしても、そう言っておかしくない笑われ方だった。本当にお腹から笑われたのだろうかと、ひねくれている私などは訝るけれども、私の詮索をよそに是非そうあって欲しい。私が想像すらできない深刻な御自身のお立場で、やもすれば御父様をはじめ周囲に影響を及ぼしかねないと、その御心配をされての上でのように思えて、その様子を画面に見ながら私は逆に心が痛んだ。昨年天和宮の訓読会で、集まった兄弟達は吹き飛ぶほどの大目玉を戴いたけれども、御父様に対しては勿論申し訳ない思いはあるけれど、でもそれにも増して疲れておられる御母様を前にして心苦しくて仕方が無かった。しばらく前のワシントンで見る御母様はいつも笑っておられて、そのときの印象が私の脳裏からは離れない。御父様の様子や御機嫌はその都度異なるけれども、御母様は微笑んでおられた。私の不手際で冷たい御父様に接しなければならない状況でも、微笑まれる御母様が隣におられて救われた。厳しい冬に縮こまりながらも春の息吹を感じるときのように、絶望的なほどの感情に襲われながらもヒョイと飴玉でも差し出されるように、御母様の存在には赦しがあり慰労がある。或る昼食の場で、御父様はやはり厳しい表情で責任者の報告を受けておられた。勧められるままに妻と御挨拶に進み出て啓拝を供えながら、その時の妻を一瞥された御母様を覚えている。緊張感のあるその場でありながら、一瞬目を見開いて口元を緩め、笑みを含んだ驚きの表情を表された。その時の妻は、前回サモニムから戴いた御母様の水玉のスカートを穿いていた。
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