2012年2月9日木曜日

私の立場

判断は頭でするものだと現代人は思っている。頭で考え、頭で判断すると、、。思考、感情、意志は魂の活動であるのに、魂自体が堕落的なのに魂の活動は正しいと思っている。自分の思考も判断も正しくなされているという前提ありきで、み言葉もその前提あってのみ言葉、信仰もその前提あっての信仰になってしまっている。しかし本当は逆で、私の思考判断はみ言葉が前提とならない限り、私を変えるみ言葉としての本質を受け取ることにはならない。遺憾にも袂を分けてしまっている兄弟はしきりに我々に訴える。良心の声に聞き従っているのか、見るべき事に目を塞ぎ聞くべき事に耳を塞いだままでいいのかと、、。お頭の弱い私でもそれなりに思考でき判断できる。しかしその思考と判断に委ねるべき領域があることもそれなりに心得ている。そして今問題とされていることは、その領域を超えてしまっている。私はこう思うだとか、こう判断するとかの自分に委ねられる範疇にはない。良心の声を聞けと言うけれども、私は彼が言うところの良心が良心だとは思っていない。普通の人間は良心が心の中で際立っていないので、相応の深みに落ちるまで罪を犯さないと、苦しいほどの良心の痛みを覚えるまでに至らない。共産主義者が自分こそが正しいと、社会に対する義憤に誇りさえも覚えて活動してきた彼らが、良心の痛みを味わっていたかと言うとそれはないだろう。彼らも今袂を分かっている兄弟達と全く同じで、頭で考え頭の判断に委ねただけのことだ。良心の声に従っている自覚もないし、勿論、悪魔の声に従っている自覚も無い。しかし結果として神が取るかサタンが取るかは、自分の判断を超えたところで決められる。それは歴史が証明しているように明白なことだ。信仰に入る入り口では私が正しいと判断したから扉を開けたのかも知れないが、本質的には私が判断して信仰するのでもないし、私が判断して従うわけでもない。御父様とみ言葉に判断を委ねて信仰を立て従って行く。そうでなければ御父様がわざわざ絶対信仰、絶対服従と言われる意味はない。判断するとは即ち善悪を知ると言うことだが、人間は思考が判断を決める場合もあり、感情が判断を決める場合もある。そして私達が本然の人間の魂の在り様として目指しているのは、み言葉が判断を決めるのであり、心情が判断を決める。だから正しいと自覚して今の立場を取っているわけではなく、み言葉と神様の心情に委ねようと努力しているだけのことだ。将来的にもし御父様が異なる判断をされるなら、絶対信仰をもって従うのみだ。それを主体性のない言われるがままの人間だと愚弄されても、そんな言葉でうろたえるほど信仰は弱くない。

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