2012年11月11日日曜日

今日の想い 489

御父様が話されたように、昼の神様、夜の神様は存在する。しかし頭で理解しようとする悟性人間は混乱する。神様が一なる御方であるのに、二なる神様が存在するということ自体矛盾している。神様という言い方を用いなければ、創造以前の神様の在り様、創造を始められてからの神様の在り様という言い方なら理解への道筋が見えてこないでもないが、御父様は二なる神様が存在するような言い方をされた。先ず私達が悟性人間であることを踏まえなければならない。堕落人間でありながら概念形成ができる、要するに思考できるということだ。神様を一なる御方と理解しているが、堕落した私が働かせる悟性の上での理解であって私が神様と一体となって神様そのものを体験している訳ではない。私は無知の存在であり、一体となって無知を克服したいと常に問い続ける必要があり、それは知としての理解もそうだがそれに留まらず感情としても意志としても問い続ける必要がある。原理を知る私達であっても今もって神様についてのことは殆ど無知に等しい。万が一でも知的に問い詰めて神様の証明が私の中でなされ、昼の神様、夜の神様についても理解がなされるとして、しかし実感もできないし体験もできない神様は私に取っては未だに無知の領域でしかない。御父様に取って昼の神様も夜の神様も体験しておられ、会話もされるだろうし通じ合う接点も持たれて話されることであって、私達の悟性的に理解したいという次元を超えておられる。もっと言えば私達が悟性として、知的理解として神様に向き合うこと自体既に距離を置いていると言える。原理を知る私達だけれども自分流に知っているのであってその理解を正しいものと思うべきではない。原理は正しいけれども私の理解は不十分だと言うこの認識を失ってはならない。御父様に昼の神様、夜の神様について尋ねれば、既に何度も触れたと怒られたという話を聞いたことがある。私達の理解、私達の神様の概念が御父様の理解と概念から異なるものであることを先ず認めて申し訳なく思うべきであるのに、私の概念形成、理解を正しいとした上でそれに見合うような説明を求めること自体が狂っていると言うことらしい。私の理解に立って問うこと自体既に御父様と異なる堕落的位置を特定してしまっている。御父様からすればそう見える。だから怒られる。自分の判断を正しいとした堕落したエバと同じ位置だ。原理をどれだけ学んだとしても、原理を真理として受け入れない位置に立ち続ければ原理的解釈を論理に持ち込むことはできない。私達は原理に立った位置でアダムエバ天使長の関係性、カインアベルの関係性を論理に持ち込むことに何の疑いも抱かない。非原理から見て原理の論理を理解できないように、私達から見て御父様の話される昼の神様、夜の神様が理解できない。それは私が復帰の途上でストップしたままだと言うことだ。自分の理解、自分の判断に満足して、それを疑うこともなく、問いを立てることもなく訓読しているということだ。昼の神様、夜の神様を少しでも理解したいと思うなら、先ず昼と夜の概念を正しく形成することだろう。そうすれば昼の私(目覚めている私)、夜の私(眠っている私)を正しく理解できるようになる。そして二つの私がどう関わっているかも理解できるようになる。それ以上述べると非難の対象になるだろうし、御父様がその通りだと印を押されない限り戯言でしかない。