2012年11月29日木曜日

心の枷

心は自由な存在であるべきだけれども、そして私の心は自由だと思っているけれども、地上的な枷に嵌められて本来的な自由を拘束されているのが現状だ。それは心の願うままに体が動かない、体には別の法則を宛がう肉心が存在していてその言いなりになっている、という認識に至るほど、肉心と本心の違いを捉えていればわかることだが、地上での倫理的道徳的な枷さえも心の自由を拘束してしまう。この倫理的道徳的に宛がわれた社会通念を御父様が指摘される良心だと信じている者達がいるけれども、そういった立場を固守する者が反教会の立場を取るようになる。だからと言って倫理道徳を無視しろというものではないことは、はっきりさせておきたい。今の社会通念は性悪説、つまり人間は元来自分中心に存在する生き物だという立場であり、集団生活を余儀なくされる人生であれば仕方なく必要条件的に出てきたのが倫理道徳と捉えるべきだ。結果的に良心的な部分も表れているが基本枷に嵌める為のものだと言える。結果的に良心的であればそれでいいだろうと思うかも知れないが、良心的なものは飽くまで良心的、外面(そとづら)であって、必ず内面が暴露されて良心的なものは破壊する。心やさしい日本人だと思っているけれども、集団の流れが変わってくるとそれに合わせる為に途端に手の平を返したように冷たくなる。それは倫理道徳が神様に対する信仰に根ざしておらず必要条件的なものだからだ。私達は良心的な行動が必要性にかられて出てくるのか、それとも内なる衝動から出てくるのかを、自分をよく観察しながらよくよく認識するべきだ。私が良心という言葉を持ち出すなら、御父様を慕い侍る想いが強くあって、それに突き動かされる衝動を伴う熱いものがなければ良心とはいえない。御父様が語られたように狂うほどに慕い侍ることだ。狂気の最高の在り様は恋だとソクラテスの弟子、プラトンが言っているように、恋した者の衝動を私の御父様への想いの中に見る。それが一片丹心だろう。御父様を只の一人の人間と見る者は、それこそが周りが見えない心の枷だと言うが、御父様に帰依する者はそれこそが堕落世界の枷のない永遠、不変、唯一、絶対の自由圏だと言う。叡智に恋するのがフィロ(恋する)ソフィア(叡智)、哲学であって、熱狂的に叡智に関わることで新しく受け取るものがある。そのように御父様を熱狂的に慕い侍ることで堕落圏を越えて入る心情世界、次元世界がある。