2012年11月19日月曜日
聖霊実体
クリスチャンはイエス様に対する独特な印象を持っていて、その印象がメシヤ像としてのイメージとして既に擦り込まれている。イエス様は人間くさいところの全くない神秘対象であって、そのメシヤ像を基準としてしまうから、御父様を再臨のメシヤであるとどんなに説明しても納得しない。大いに人間くさい御父様であられるし、何よりも東洋の顔つきをされておられる御父様には西洋的な神秘性は感じないらしい。多くのクリスチャンにとって説明を受けるまでもなく、そう言ったメシヤのイメージにそぐわない時点でアウトだ。御父様が聖和されて、残された私達は御母様を中心として摂理は進められていく。そのことについては食口誰もが納得しているだろうし当然のことと思うだろう。しかしこれからは明らかに御父様に向いていた私を御母様に向けなければならない。御母様に対する原理的認識は置いておくとしても、私達の御母様の認識は御父様と共におられる口数の少ない御母様だった。しかしこれからはその御母様の印象とは明らかに異なる姿を見ることになるだろう。優しく微笑まれ慰労される御母様だけが御母様ではないということだ。御母様を中心として、と簡単に言うけれど、私達はそう口にしてもその本当の意味を知らない。その意味を少しでも早く私の中に落とし込めることが最重要課題だ。今の御母様は聖霊実体だ。実体のメシヤを私の中に落とし込めることに四苦八苦していたのに、今は聖霊実体を私の中に落とし込めることを早急に始めなければならない。忘れてはならないのは、私は未だ堕落性を内包している身であるから、御母様に対する様々な思い、葛藤が少なからず生じてしまうということだ。それは聖霊実体を私の中に落とし込む過程で通過しなければならない門でもある。私の中に葛藤などの課題を見て、例えば御父様の語られた言葉とは違う、指示とは異なる等の認識は正しいとしてもそこに反発心を覚えるのは、私の中の造り上げた御母様の在るべき姿を頑なに護ろうとするからだろう。しかし信仰年数を経た私の御母様のイメージは聖霊実体とは異なる。私達は聖霊実体の意味をこれから知るようになる。今まで培ってきたものが妨げとならないよう、特に信仰年数の多い者はそれ故の負の遺産を負と認めずに保持してしまい、聖霊実体の次元に越えて行くことができない。レガシーと言う言葉を或るグループはよく使っているが、その中に負の部分が相当入り込んでいて、味噌も糞も一緒になっている。私達も課題に突き当って、圧倒的に多い負の部分を削ぎ落として未練なく捨てるのでなければ、新しい次元の淀みない光や空気や水を糧にできる私を用意できない。