2012年11月25日日曜日

今日の想い 495

田舎の親は年老いた今でも、寺の行事やら掃除やら世話役で忙しい。過疎で殆どの住人は町に移住していて、寺の住職ですら状況は同じで、行事がある毎に町から足を運ぶだけでその寺に住んでいるわけではないらしい。残った年寄り達が寺を護っているということだ。うちの方一帯は浄土真宗だが、殆どがそうであるように、この教えにこそ真理があるという思い入れがあって寺を護っている訳ではなくて、時を経て重ねてきた文化であり慣習であり伝統として行動している。その行動様式に自分を供えながら、宛がえることで魂にある不安や恐れへの対処としている。祖父が亡くなった時に私は名古屋にいて、葬儀に間に合うように田舎に帰ってきて、葬儀の前だったか後だったか、数少ない親戚のうちの大伯父と叔母が一晩家に泊っていった。私を含めた兄弟三人とその二人が六畳半の部屋に枕を並べて休んだ。大伯父は兼業僧侶で、叔母は休むために横になりながら大伯父に尋ねていた。死んだら本当にあの世があり極楽浄土に行けるのだろうか。特に力を入れて改まった様子で尋ねたわけでもないので、大伯父は説法を始めたわけではないが、昔からそうだったように鼻を鳴らしながら応えた。この目で見た訳でもないので何とも言えないが、浄土に行けると信じること以外何ができる訳でもないと、、。仏の教えはそれが真理であると証明され納得させて信仰するものではなくて、煩悩を患い、不安や恐れを抱く魂を、先ず教えを受け入れることで癒そうとするものだ。仏教の本質がこうだということではなく、私の田舎の人達にとってはそうだ。その在り様を否定して真理の権威を持ち出すことに何の意味があるだろう。我々が信仰と捉えるものと異なる慣習化した信仰にも、それなりの仰ぎ見るものがある。それを敬うことをせずに入っていこうとしても無理があるだろう。私達が伝道とイメージするものがあって、頑なにそれをして復帰することに躍起になっても、それでみ言葉が入り、御父様を受け入れ、祝福に繋がるかどうかを真剣に考えてみるべきだ。ならば私が先ず対象者の人々の基準に合わせ、同じ在り様となり、彼らなりの祝福への扉を開いてあげることも選択のひとつだろう。私は知の扉を開いて御父様に繋がったけれども、情の扉を開いてあげて繋がる道もあるはずだ。