2012年11月6日火曜日

今日の想い 487

反対する者や批判する者が発生するからこそ、それらに対抗する善の位置を高めていくことができる、と言うこともできる。ひとりの個人やひとつの群れが成長し発展する過程で、何の障害もなく成長し発展することなどない。或る段階で必ず外部からの挑戦を受けるだろうし、内部に於ける葛藤を経て、屈せずに乗り越えた時に大きく成長し発展するものだ。外部に出た者が教会を指弾し、それに触発されて私達の内部に於いて葛藤がもたらされるのは、或る意味避けられないし、起こるべくして起こることだとも言える。反対する者、批判する者は先ずカイン的なものが彼らに働きかけ、そして拳を上げるのを神様が許可して、彼らはカイン的立場で旗を揚げる。そして迎え撃つ者、収拾する者はそれを受けてアベル的なものが彼らに働きかけ、より善なる位置に押し上げられるのをサタンが許可して、彼らはアベル的立場で旗を揚げる。復帰歴史ではカイン圏の中にアベル的立場で旗が挙げられたが、アベルの位置にある教会でそれは当て嵌まらないと私は思っている。そしてアベル的立場で彼らを収拾し吸収するなら、教会は大きく成長し発展するだろう。それを通して教会は次元を上げたレベルに押し上げられるはずだ。アベルカインの常として、カインの存在を認めなければカインの背後にあるサタンは益々勢いを強めさせ、アベルへの仕打ちも強いものとなっていく。教会が反対意見、批判意見に対してダンマリを決め込み、何もないかのように無視するなら内紛の火は燃え上がってそれなりの犠牲は覚悟しなければならないだろう。反対する意見、批判する意見はあって当然だ。しかしそれがアベルに対する徹底抗戦、教会自体を粉砕することへ向けられるならカインではなくサタンだ。食口誰しもが多かれ少なかれ教会に対していろんな思いがある。しかしその思いが正しいのかどうかは私と言う狭い視野ではわからない。いろんな事情があって今の状況があるわけで、組織の秩序への敬意を払った上で私は私の位置と立場でもって、そして教会の責任者もいろんな位置と立場があり、そこに立つ者が決めたことへの敬意も最大限払って意見すべきだ。本質を見る者は表面的なことに左右されず、もちろん見物人のように外から眺めている訳ではないのでそれなりに翻弄されるのは事実だが、だからと言って内的霊的に立てた本質的柱までぶれることはない。ぶれるどころか試練を通して益々太く強固になる。内的霊的なものが主体であることを知りながら、この世と何ら変わりなく外的表面的なものだけにくちばしを突っ込むことに汲々とするなら、神霊に繋がり神霊を柱として備える私にはなれない。アベルとして立つ者にはアベルとしての霊的品格がある。カインとして異を唱え旗を揚げる者がいるなら尚更アベルとしての霊的品位を保って対するべきだ。おもねるでもなく、かと言って子犬のように吼え続けるべきでもないが、言うべきことははっきりと言うべきだ。