2012年11月14日水曜日

今日の想い 492

日中は晴れ渡って汗ばむほどで、時折吹く風が心地よい秋の顔を見せていたけれど、夜半には窓を打つ音が聞こえてきて、カーテン越しに外に目をやると街灯で反射する路面の鈍い光が揺れて届いた。一晩中続いた窓を打つ雨は朝方になっても止む様子もなく、玄関を出て傘を指しても跳ね返る冷たい雨が恨めしい。昨日から今日への変わり方を思うと、季節は急に手の平を返したように冬へ突入していくようだ。駐車された車も路面も濡れ落ち葉で覆われている。そのまま車に乗ってワイパーをかけたが、フロントガラスにしがみ付いた落ち葉がなかなか取り除けなくて苛立った。今年の秋が去っていく。実りとして受け取った何の感触もなかった今年の秋が去っていく。清平では秋の大役事が行われ、御父様がその場におられ、その席に座っておられると話されたようだが、私はと言うと、清平に来られて清平に行けばお会いできるという感情を、いまだ抱くに至らないでいる。御父様は聖和されたのであって亡くなられたのではないはずだ。しかしどんなに自分に念を押してみても、見えない御父様がそこに居られると言われても、何の感情も抱かない。それは信じないということではなくて、御母様が食事に御父様が訪ねてこられると話されるのと同じように信じてはいる。しかし信じることと、見て聞いて息遣いを感じられる御父様を体験するのとは異なる。私は何がしかの形で体験できる御父様を求めているのであって、そこにおられると言われて安堵だけしても何の意味もないと思ってしまう。私は思い上がりで傲慢なのだろうか。確かにそうだろう。そこに居られると言うなら訪ねるべきだろう。私の中に御父様への切羽詰ったものがあるなら飛んで行って当然だろう。私の内面は揺れ動いている。壊していない死の概念と、新しく、まだ形に成り切らない聖和の概念とがぶつかり合って揺れ動いている。死んで亡くなられた御父様ではなく、聖和された御父様だという感情が私の中に育っていない。