2012年11月13日火曜日

今日の想い 491

形から入ろうとする者は既に形に嵌め込まれていて、新しい世界の入り口はその形を拒んでしまう。形成されていた概念を壊すのでなければ、新しい真理は許容できない。新しい真理が私を拒んでいるように思えるけれども実は自分自身が新しい真理を拒んでいる。本体論が理解できないとか原理と大して変わらないとかというのは、そんな状況に自分が陥ってしまってそうなっているのだろう。自分流に理解した原理を物差しにして本体論を受け取ろうとするから、本体論の入り口にすら入れない。何も分かっていない自分が、神様を本当に知りたい、御父様を本当に知りたい、霊界を本当に知りたいという強い動機で本体論に向き合わなければ、未だ見えぬ真理に対して既に私の中にフィルターが幾重にもかけられていて届くものも届かなくなってしまう。思考を超えた思考、すなわち思考そのものの次元を上げなければならないし、その為には私の感情を超えた天の心情に通じなければならないし、本体論の講義を通して私に働く神様の意志を見なければならない。講師は自分の口を通し神様が語られるものとして身を委ねるのであり、講師自身も語るものを通して学ぼうとされる。講師に神霊が宿り神霊が語るのを私達は見ているし聞いている。勿論講師自身の内的姿勢が重要でありその準備にも十分時間を割かなければならないが、聞いて受け取る側の内的姿勢も講師の姿勢に働きかける。語るもの聞くものが神霊を迎えるために一つになろうとして、その授受の動きが活発となり、講師受講者一体の境地において神様が顕現されるだろう。本体論に自分から働きかけるのでなく、それが真理なら私を納得させられるはずだと受身の態度を取り続けて、棚からボタ餅が落ちるのを待っているだけで真理が向こうから訪ねてくるなどと思わないほうがいい。それは神霊からすれば傲慢極まりない。受講するのは外的には受動的姿勢であるけれども、私の中から心魂を取り出して神霊の宿る講師の前に供え物として捧げるほどの能動的意志を差し出す必要がある。語られる言葉の中に気絶するほどの真理が隠れている。それを取り出し受け取ろうと思えば否定的私の部分との熾烈な戦いが繰り広げられるはずだ。講師の戦いも激しいものがあるが、受講者の戦いもそれに劣らず激しいものがある。本体論の講義を受けて何の変化も受け取れないなら、私に働くサタンは勝利宣言したということだ。