2012年11月27日火曜日
今日の想い 496
以前、関西の長寿番組、探偵ナイトスクープに、四葉のクローバーの場所を言い当てるという女の子の話が出ていた。公園の草地に佇んでいたかと思うと走り始めて、呼び寄せられるようにその場所に行き、しゃがんで腕を伸ばし四葉を手にする。本人の説明は教えてくれる声が聞こえると言うものだった。その場所場所に番号でも示されているように次々と走り寄っては四葉を手にしていた。純真な子供ならではのエピソードで、私はその純真さをいつまで持ち続けることができるのだろうと思いながら見ていた。人間が生まれて間もない幼少期には罪は表れて来ない。しかし人間の成長過程のある時点で内包していた罪が表に現れ認められるようになってくる。人に依ってまちまちだが、大体が思春期の頃、大人の体となり人間の中に別の知恵が働き始める頃だ。エバがルーシェルに、取って食べると神のように知恵がつき目が開けるのですかと聞いているので、ルーシェルがエバにそう言って誘惑したということだ。確かに思春期の頃、別の知恵が働き始めて狡猾さが認められるようになる。思春期というエデンの園で感覚界に目覚めて周囲に開けてきて、見たい聞きたい触れたい自分のものにしたいという欲望が一気に芽を吹き出す。それは感覚的なものへの堕落的接触だ。それは堕落人間だから自動的にそういった在り様にならざるを得ない。そこから堕落的なものを除去しようとするなら、先ず感覚そのものを否定する必要がある。感覚の背後に潜在的意志(意識)があり、その潜在的意志の背後に霊的無知がある。大まかに言えばそうだが、仏教では人間の12の因縁を釈迦の悟りとして詳しく表している。順番をいうと、無知、形成、意識、人格、感官、接触、感受、渇望、官能、受胎、誕生、老死、となる。最初の六つの過程が霊的堕落であり最後の六つの過程が肉的堕落の過程だ。肉的堕落はイメージしやすいが、霊的堕落は霊的感性が無いか或いはお粗末な我々現代人には把握が難しい。堕落論は正しくも無知な私達は霊的な概念がわからない為、どうしても地上的に捉えてしまう。地上的に捉えた理解でどうも堕落論は矛盾すると思ったとしても、矛盾するのではなく霊的に理解していないと捉えるのが正しい。ルーシェルの誘惑という無知因縁からルーシェルとの交わりである接触因縁まで即座に起こったように思われるけれど、霊的堕落には戒めの否定から始まってルーシェル的色合いの形成力を持ち、それが意識を起こさせ、霊の人格となり、霊的感性を育て、接触を味わう段階を経ている。ルーシェルはエバを決定的霊的堕落に持って行くために段階毎に経過を指導していった。御父様は霊的に無知な現代人でも堕落の意味を理解できるように堕落論として表されたけれども、その本質や深みを探求する意志なくしては、堕落論の骨格の骨格を知っただけで、その肉付けや動きまでもわかるほど罪の根である堕落を見通すことはできない。純真な幼子に堕落以前の様子を垣間見ることはできるが、ルーシェルが誘惑し始める更に以前の、神から戒めを受ける以前の人間の状態は見ることができない。基元節に於ける再祝福は、堕落以前の立場ではなく、神様から戒めを受ける以前の立場で祝福を受ける。その意味を理解して受ける兄弟達がどれだけいるだろうか。