2012年11月5日月曜日

今日の想い 486

私達が身を置く堕落世界には堕落世界なりの善悪観、道徳倫理観があるのであり、その観念が依然と私達の念頭にあるならその観念で教会の行動を測ってしまうだろう。私達が、願われる万物を復帰して捧げる過程で、堕落世界の観念から外れる方法でなされたとして、それに対する負債や嫌悪感を持ち続けるのは先ず堕落世界の観念を正しいものと認識した上でのことだろう。それ自体は決して悪いことだとは思わない。この世にはこの世なりの立てるべきものがあり、常識があり、それを無視して復帰できるはずがないからだ。しかし天の摂理を僅かでも理解している者なら、立てるべきものの順序は自分の中で明確にしておくべきだ。天の願いを優先すべきなのか、それとも先ずこの世の道理や観念を宛がうべきなのか。急がれる摂理への要求行動が、この世の観念として頷けるものとして活動できればそれに越したことはないが、そこまでの実力も知恵も余裕もなかった。勝利する為には手段は選べなかったと言えば反感を買うだろうが、もしこの世の道理に合わせた遅々とした活動で、御父様の勝利圏に一役買ったとはとても思えない。献金要求というのは我々の便宜上の言葉であって、御父様が献金そのものを願われているのではない。御父様が願われたのはあくまで精誠であり、精誠をどう形にするかとなるとこの世で権威のあるお金ということになる。この事実を言いがかりだ、結局は金だと言うのであれば、それ以上の説得の言葉を述べる意味はない。世界中の金を集めても御父様の価値、戴いた祝福の価値の何の足しにもならないと私は確信している。更に言えば自分を含めた人類全ての生命よりも御父様の存在は尊いと確信している。だから差し出す献金に精誠がこもっていなければ、そのお金は何処かの地に流れてしまうだろう。献金要求に不平不満を抱いて差し出しても、やはり何処かに流れていってしまう。敢えて俗な言い方をすれば精誠を買って戴いて神霊(心情)を対価として受け取る。自分の思いとしてこれだけ頑張った、これだけ献金した、これだけ犠牲を差出したと思っているかも知れないが、対価として受け取った心情が自分にあるかを問うてみるべきだ。自分の中に心情として戴いたものがないのなら、差し出したものは精誠を込めたものではなかったという結論に至る。もし受け取る心情の価値を認めないなら、最初から御利益を求めた御利益信仰でしかなかったということだ。