2012年11月8日木曜日

今日の想い 488

マルコ伝二章には、群衆のために近寄ることができないイエス様に近付く為に、屋根を剥いでつり下ろすまでしてもらった中風を患った者の話がある。ここで誤解すべきでないことは、中風を癒してもらうためにイエス様のもとにつり下ろしたのではなく、罪の赦しを請うためのものだったということだ。子よ、あなたの罪は赦された、とイエス様に言われた時点で中風の者は赦しを得て満足したのであり、そこにいた律法学者の内心を読み取ったその後のやり取りがあった後の、床をとりあげて家に帰れと中風の癒しを得たことについては彼に取って付属的なことだった。聖書の理解の足りないのは私だけなのだろうか、つい最近まで中風を癒してもらうためにイエス様に近付いたのだとこの個所を理解していて恥ずかしく思った。イエス様の当時、ある霊的な方法で病を癒すことは、現代に於いて医者が薬を処方して直すのと同じくらい普通であって、それを特に奇跡とは思っていなかったようだ。だから病を癒す為だけなら別にイエス様のもとに行く必要性はなかった。当時、罪の認識と地上的なものとの繋がり、すなわち罪と病や生活苦との繋がりを認める為には信仰でしかない。中風を患った者は病から罪への認識を深めたはずで、そして罪の認識からイエス様こそ救い主だと信じたはずで、イエス様はその信仰をみて罪の赦しを与えた。しかし今は闇雲に信じる必要性はない。み言葉を受け入れた私達は罪と地上的なものとの関係を先ず蕩減のみ言葉知識として認めて納得している。現代に於いては信仰と悟性的認識は切っても切れない関係にあって、敢えて盲目的信仰を強要されることはない。だから今は信じて義とされるイエス様当時と異なり、侍って義とされる時代にある。イエス様当時では信じることに犠牲を払う必要があって義とされたが、今は理解に犠牲を払う必要はない。その代わりに信仰の上で慕い侍るためには犠牲を払う必要があってそれが義とされるということだ。義とされるとは精誠として受け取られると言うこともできるだろう。私達は御父様を再臨のメシヤとして信じていると言う言葉に偽りはない。しかし信じる私から慕い侍る私になるためには、知識としてのみ言葉から感情(内的実感)としてのみ言葉、更に衝動(意志発動)として受け取るみ言葉になっていなければならない。