2012年11月16日金曜日

愛を想う

愛、、。この世であっても愛のために生きている。愛を渇望し、愛を捜し求め、そして愛らしいもので満たそうとする。胸に愛を募らせて衝動を覚え、目に愛を溜めて潤いを差し出し、言葉に愛を込めて伝えようとする。愛は胸の内の想いから涙に流れ、涙から言葉に流れて、そして愛を関係性という形に変えていく。食口はここ教会にこそ愛がある、本当の愛があると信じてつどってきた者たちだ。本当の愛を受け取ろうとすれば与えることを先ず願われる。しかし、与えることと、要求されて差し出すこととは異なっている。与えたいのか、それとも与えなければならないのか。与えたい想いで内面が満たされているのか、それとも与えなければならない思いが重く根雪のように踏み固められているのか。与えたい衝動を胸のうちに覚え、救われていない対象への想いが目の潤いとなり、言葉に救ってあげたい想いを込めて伝えようとする。それが神様の想いと合わさる伝道だろう。私の中に要求されるものを重く引き摺りながら、愛の使者とは程遠い恨みの死者と化し、条件的だと言いながらも重い体を引き摺っていくならば、それはみ旨と言え伝道と言えるだろうか。私達食口は私達自身をどう解放したらいいのだろうか。真の愛と口にしながら、言葉の抜け殻だけを携えて、愛とは別もので心魂を満たそうとしているのだろうか。この世の愛は関係性に本当の愛かどうかの証しを求める。いつまでも流れ去ることのない愛なのかどうか。形に変えて手に入れた愛だと思っても、その瞬間から不安は募っていく。硬く握りしめればしめるほど、更に不安は増していく。形として受け取るものに、愛の確かさを見たいがため、ひたすら相手に愛の証しを要求するようになる。その過程で、愛は幻になっていく。証しを求めたら愛は愛でなくなる。形に変わってこそ愛があると思えるような、愛を見て聞いて触れる感覚的なものに貶めても愛は愛でなくなってしまう。愛は流れて渡されてこそ愛であり、留めて握りしめて手放さなければ愛は抜け殻のみを残して逃げて行く。私達は愛をさらに愛らしい愛とするために、敢えて愛の感覚を求めない。私は愛の主体ではなくて、愛が私の主体だ。愛の願いのままにどこまでも従いゆく。