2012年11月20日火曜日

今日の思い 493

雪が降ると、点在する家屋は白く冷たい覆いをかけられて縮こまり、人気のない田舎は眠ったように動きを止める。田舎に雪が降っているのをブログの更新で知って、家に電話をかけてみようと思った。受話器を取って番号を押し、向こうが取り上げるまでの呼び出している間がいつも落ち着かない。何かあったら直ぐにも電話を入れるよう伝えてあるが、その電話がかかってきたとして一体どう対処したらいいのだろう。そんな思いがいつも頭によぎる。向こうが受話器を取り、母の声に変わってやっと息をつく。たどたどしいやり取りが続いて、誰かが聞けばこれが本当に親子の会話なのかと訝るほど乾いて機械的だ。感情は込めずに確認事項だけをひとつひとつ並べていく。別に電話口だけでなく顔を合わせて話すときもこんな感じだ。もし特別な事態になったとしてもおそらく変わらないだろう。逆に、嬉しくて仕方なければ冷たさを装い、悲しくて仕方なければ笑顔さえ浮かべるはずだ。ドラマに見るような愛情の表現は私にとっては相当気恥ずかしいものだ。そんな母が唯一涙を見せたのが、私が献身する前日、下宿に父と来たときだった。その時の母の涙は痛みとなって今でも胸に残り、霊界に行っても決して癒えることはないと思う。もうすぐ母も80になる。春に帰った時には前よりも縮んで背は更に低くなっていた。まだ言葉に力がある時は、電話するたびにいつ帰るかとしきりに聞いていたが、最近はこちらが尋ねることに頷くだけで終わる。年を取ると地上の現実よりあの世に意識が移っていくらしい。視線は地上を離れ、あの世の便りに聞き耳を立てる。周りに人がいない環境であればその傾向は一層強くなる。野も山もすっぽり雪で覆われれば、地に着いていた意識が浮いて、見えない向こう側を垣間見たりする。孤独の恐ろしさが感情にひたひたと寄せて来る。若い者であってもそうなのに、いつお迎えが来るかもわからない年寄りは尚更だろう。原理を講義して理解できるとはとても思えないが、心魂は確実に救いを求めているのであって、そこに手が届き気付かせることができれば、閉ざされていた心の門が開いてみ言葉を受け入れるはずだ。長い間、私自身が氏族復帰に対して閉ざしていたものがあったが、今は向こうから訪ねてでも救いを求めて来る、という感覚が日増しに強くなっている。しかし私は訪ねて来るまで待っているのではなく、訪ねて来れるように先ず誘い水を差し向けることが必要になってくる。この電話連絡もそのひとつだ。