2012年11月30日金曜日

今日の想い 497

歳を取れば時が短くなっていくものだが、特にここ数年の流れの速さは異常なほどだ。季節季節の趣きを味わう余裕もないうちに次の季節を迎えてしまう。感謝祭をこえてクリスマス、そして新年を迎えるこの季節は、家族と会食したり実家に帰っている懐かしい友達に会ったり、勿論クリスマスに向けてのギフトを準備するのもこの時期だけれども、いつもはそういったホリデーシーズン特有の雰囲気に包まれて過ごす。しかしここ数年、特に今年のホリデーシーズンはそんな空気も流れていないし、そんな気分にも浸れない。おそらくそれは私が歳を重ねたせいではなくて、時の流れが加速し続けていることによると思える。私達は基元節の意味はよくわかっていないにしても、基元節を迎えることを知っているし、摂理的な認識の観点から季節の趣きを味わうような状態にはないことはわかっている。み言葉を知らない人々は基元節それさえも知らないが、しかし時の流れの速さだけは感じ取っていてそれに抗うことはできず、生きるために懸命に流れが要求するものに応えようとしている。人々の意識の水面下で、人類全体の潜在的意識の大きな流れは既にこのD-DAYに合わせられていて、人々は無意識にもその準備をさせられている。いろいろな認識の表れのひとつは、2012年12月22日、マヤ暦の終結だが、御父様は以前人々の間に広がりを見せたその事に触れておられて、「わかることはわかっているようだね。」と話されたことがある。基元節を知っていれば自分の基元節への準備が為されるのではなく、基元節を迎える最終的な準備を備えた者は、基元節を知らない何処かの何かの群れであるかも知れない。神様は神秘的に働かれると話された子女様がおられるが、この言葉に関してはその通りだ。祝福を受けており、摂理に奔走してきたのであり、基元節を知っており、再祝福を戴いて天国の末席に加えて戴けると思っているけれども、それが自分の思い込みによるものかも知れないし何の保証にもならない。自分が思っている基元節ではないかも知れないし、天国は自分が期待している天国ではないかも知れない。そんな意表を突かれたとしても、そこで頑なになって塩の柱になるのではなく、何を言われたとしても何が起こるとしても、受け入れられる内的な柔軟さを備える必要があるだろう。その為にはどうしたらいいのかを問わなければならない。御父様が聖和されて、追い腹を切る食口のひとりふたりはいるだろうと思われたが、そんな話は聞かない。しかし行動は取らないにしても、それ位の一片丹心を持って、基元節への条件と心構えを準備する私になるべきだ。