2012年11月4日日曜日

今日の想い 485

自分は何のために生きるのか、何の願いがあって生きたいのかさえぼやけている。そして生きることの意味がわかったと思っても油断すれば直ぐにぼやける。生きることの意味を問わずにただ生きたいというのであれば、生への執着、しがみ付きだと言われても仕方がないのであって、生死を越えた位置で霊としての柱が立ってはいない。あらゆる哲学思想を凌駕するみ言葉でありながら、先人が開拓してきた精神の足元にも及ばない意識基準であって、それではみ言葉を受け取った意味は何だったのだろうかということになる。総序にあるように幸福を追い求める人間であるけれども、執着心という堕落性は本来その欲望を満たして幸福にはなれないにも拘わらずその状態を請う(乞う)ことだが、生きて何をすべきかを問わずにとにかく生き延びたいというのであれば、み言葉とは程遠い自分であると思った方がいい。ただ生きることのおまけに信仰があり、その信仰として信じるものに御父様が属しみ言葉が属しているだけだ、と言われればどう反応するだろうか。本当はみ言葉が全てであり、み言葉があって私という存在があり、そして私が肉体をもって生きることの重要性はその次にくるべきだ。真理と神霊に生きるべき私達がずれてしまって、妥協と肉の想いに傾いている。信仰の形骸と生活重視に傾いている。私の中に燃え盛るものがくすぶり始め、今の生活と安定を犠牲にしてもあまりある理想を失いかけている。かつては受動的にそれらを私の中に見ていたけれど、今は私が能動的に燃やす必要があり、理想を描き続ける必要がある。御父母様によって生まれ変わり、新しい生命を与えられた者としての証明はそうしてこそ為されるだろう。何のために訓読するのか。真理が私の中に燃え盛るためであり、神霊としての理想を希望を喜びを掲げ続けるためだ。何時間訓読しようが何ページ読もうが、ただそれだけで悦に入り満足していて、何処の誰が私達を羨望の眼差しで見上げ、教会に本物があると近寄ってくるだろうか。それでもまだ読まないよりは読んだ方がいいと、諦め気分で御父様は呟かれるだろうか。