2012年11月23日金曜日

感謝する私から愛する私へ

私はどれほど多くの贈り物を戴いて生きていることだろう。この生命それ自体が贈り物だ。それは長いとか短いとかで価値が計られるものでもなく、嬉しいか悲しいかで計られるものでもなく、たとえ痛み苦しみの連続であったとしても、それでも戴いた生命はそれ自体が計り知れない贈り物だ。さも当然のように何の感情もなく生きているけれども、数々の贈り物への感謝の想いのないまま生きるのは生きているとは言えない。何ひとつとして犠牲を払われずに届く贈り物はないし、私と共にある全ては犠牲に貫かれ、私に起こる全ての出来事は愛のひとつの形として、愛のひとつの現実として私と共にある。そこへの感謝の想いを私の中に見い出し、そして抱えてこそ、私は死亡圏を超えて生きていると言える。その感謝の想いは、死亡圏で喜ばしいことが起こることへの感謝とは感謝の次元が異なっている。死亡圏の感謝は苦しいこと悲しいことへ向けられることはないが、御父様に戴いた真の生命圏の感謝はこの世的苦痛も悲哀もその感謝で昇華できる。苦労すれば優しくなれるとか、将来的糧になるとかと言った回りくどいものではなく、犠牲的在り様それ自体を感謝する感情として私の中で燃えている。百篇犠牲となって死んだとしてもそれでも返せない恩を受けていると言うのは、ものの譬えではなくその通りであって、だからどんな立場であれ境遇であれ、感謝の想いに溢れて歩んで当然の私だ。私が感謝の実体でないなら、謙虚の実体でもない。私が神霊に通じる霊的存在、精神存在となるためには、感謝の実体、謙虚の実体であることが基本にある。イエス様は人類の為に犠牲となられて、それを恨みとせず御意のままにという感謝を抱いた。イエス様が立てた感謝の基準をもって、人類は同じ感謝の基準まで引き上げられる。御父様も人類と神様の為に犠牲になられて、それを恨みとせず過ぎてみれば全て愛であったとされ、愛の勝利を抱かれた。御父様が勝利された愛の基準、真の愛の基準をもって、人類は同じ愛の基準まで引き上げられる。人生それ自体の避けられない艱難辛苦を甘受し感謝する私はイエス様の犠牲の勝利によるものであり、み旨の為に敢えて艱難辛苦を引き受けて立ち向かう、為に生きる私は御父様の真の愛の勝利によるものだ。