2013年3月24日日曜日

今日の想い 549

私達は悟性人間であるので、どうしても論理的に理解できるようにとみ言葉に接する。勿論、御父様は論理的説明をされる時は、頭のいい者達を屈服させる見事なほどの論理的説明をしておられるけれども、み言葉に対するとき常に論理を満足させるものとして接するのは、み言葉の生命を受け取る姿勢だとは言えない。み言葉から生命を受け取るのか、或いは死んだ論理だけを受け取るのかは同じみ言葉に接っしていても雲泥の違いがある。私達は先ず悟性人間であることを捨てて、心情人間だという観に立てなければ、み言葉から生命を受けて私自身を再創造することはできないだろう。明日には死ぬとわかっている者に対して、み言葉の論理的説明をいくらしたとしても、その人が満足することはない。理屈が欲しいのではなくて永遠の命に至るものを受け取りたいという渇きがあるからだ。死への不安と恐怖は霊界の論理的説明から消えるものではない。自分が悟性人間で悟性を立てて存在している訳でもなく、ましてやこの物質人間として肉体に依存している訳でもなく、本当は私という存在は死を越える愛に生きる心情人間であることを心が認識し心が悟った時に、死への不安と恐怖は自ずと消えていく。み言葉の論理的説明も勿論大切で、悟性人間に取ってはそこを入り口にしない限り受け付けないが、既に愛に生きる心情人間であるという観の芽が育っているのに、未だに自分を理解させるものが欲しいと、そうしなければ動けないと、論理説明への執着をしてみ言葉に接するのは訓読の履き違いのように思うけれどもどうだろうか。私は行動することの意味への理解が先ずあって行動するのか、それとも愛の衝動から行動するのか、私は後者でありたいと思うし、御父様の言葉や指示や行動も全て愛の衝動から、心情が動機となってのことだと信じて疑わない。私は悟性に仕えるのではなく愛に仕えたい。

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