2013年3月27日水曜日

今日の想い 550

御父母様に対して絶対信仰、絶対服従、絶対愛を捧げようとする者こそが本流だろう。どんなにみ言葉を研究して摂理的事柄を理解するよりも、彼らはみ言葉をみ言葉の生命として、力として受け取っていると思うし、盲目的でもあり大勢の流れに身を預けてしまうようにも見られるが、しかし天を優先しているのであり、神霊は彼らを通して最も働くはずだ。み言葉だ訓読だといいながら、しかし頭ばかり大きくなって、御父様が意図された訓読の目的とはずれてしまっている者達がいる。流し読みも褒められたものではないが、論理性に大きく傾くのも知性だけを満足させるものにすぎないだろう。晩年期に語られたみ言葉には多くの理解できない部分、謎の部分があって、その解読に精神を注ぎ込みたいとも思うが、誰もが願われるみ旨の要求とは言えないだろうし、関心はあってもやはりそこは学者に任せるべきだろう。或る者は教条主義的であり、また或る者はこのように悟性第一主義的であり、それが駄目だと言うのではなく、そうあることが私のみ旨なのかどうなのかを祈祷して問うてみる必要がある。そういう食口に限って祈祷を蔑ろにしているし、祈祷さえも教条主義的であったり悟性第一主義的であったりする。私が一個の肉体存在であるように霊としての私も一柱の霊的存在だ。だけれどもこの体が自然環境から独立して存在できないように、霊としての私も独立しては存在できない。柱は柱で支えられない限り柱として立つことはない。私はこの地上にどうして生を戴いたのか、どうして御父母様に帰依することになったのか。確かに願われたものがあり、それに合わせて願うものがあるはずだ。私は私として自由意志を持っているけれども、自由意志先ずありきではアダムエバが堕落したのと同じように堕落してしまう。肉的堕落の前に霊的堕落が起こったように、霊的堕落をして神のように賢くなりたいという、神に反してまでも意志選択を果たしたように、私には私の願われたものとしての存在目的を捨てるなら、それは私の霊的堕落だろう。だから絶対信仰、絶対服従、絶対愛だ。

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