2013年3月3日日曜日

今日の想い 540

私は自由意志を備えた人間存在だ。しかし私は自由を謳歌している人間ではなくて、自由の霊的重みをどう抱えていったらいいのか、その使い道に悩み臆病でもある人間存在だ。人間始祖、アダムエバは自由ゆえに堕落した。自由ゆえに神様に尋ねることを諦めたし(しなかったのではなく諦めてしまったと敢えて言う)、自由ゆえに自己の欲望を優先した。だからアダムエバにとっても、神様にとっても、人間に備えられた自由意志そのものが恨めしい。堕落の結果アダムとエバはエデンの園から追い出されたことになっているけれども、神様の痛みに耐えかね、すなわち彼らの良心の痛みに耐えかねてエデンの園から逃げざるを得なかった。この恨めしい自由意志、本然の人間であろうが私という堕落人間であろうが、この自由意志を抱えている。自由意志故に堕落したものを、自由意志をもって堕落から復帰させ、自由意志をもって生命の木に至らせる。私が祝福を戴いて、私の存在の根源で御父様に繋がることで、気付いたことがある。それは私の中には無かった別様の自由意志が備わったことだ。堕落とは関係のない別の自由意志を刻印していただいた。しかしそれは自己中心的欲望に向かう自由意志に比べれば余りにも弱々しく、さらにそれは自分という存在を否定する自由であり、犠牲にする自由であり、悩み求める自由でもある。私の中のこの自由意志が長子権を復帰し、自己中心的欲望に向かう自由意志が自然屈服するために、私はどれほどの道のりが必要なのだろう。それでも私の中で息衝いていて不断なる精神の高みに向けるために、その活動は止むことはない。それは日増しに強くなって体の外枠を超える勢いだ。御父様が聖和された今、外に見ていた御父様を内面のこの良心とも呼べる自由意志に見ている。良心が息衝き、良心が疼き、良心が私の背中を押し続ける。それは御父様が私の内面で息衝いているのであり、疼いているのであり、私の背中を押し続けておられるということだ。

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