2013年3月19日火曜日

今日の想い 548

時に、例えようもない減少感、孤独感がひたひたと私の内面に押し寄せてくることがある。愛を求めてきたはずなのに愛は随分遠のいているようで、オアシスだったはずの内面は砂漠と化していくようだ。信仰路程もここまでくれば多くの賛同を得ているはずが、私の周りには子供も含めて誰もいない。すべてが幻だったのだろうか。求めていた愛も、追いかけてみたら態のいい褒め言葉だけが残されただけだった。どうも愛を求めていたのではなく、体裁を繕うことに終始していたということか、、。受け取る愛もなければ、与える愛もない。愛が何かさえ未だにわかってはいない。愛がわからずにどうして愛することができるのだろうか。妻を愛する、子供を愛する、コミュニティーを愛する、親族氏族を愛する、国を愛する、地球を愛し世界人類を愛する、御父母様を愛する、天の父母様を愛する、愛することで私は存在することを赦されるだろうに、愛がわからず愛することができない。御父様が示して下さった愛を、私は愛として受け取ってはいなかった。愛することができないにもかかわらず、私は親としての位置がある。親としての親心がある。罷りなりにもみ言葉が入り、思い込みではあったとしてもみ言葉に沿うた子供の幸せへのイメージがある。勿論それは御父様を受け入れることであり、み言葉を受け入れることであり、そして祝福を受け入れることだ。親心としてそうあって欲しいとひたすら願いながら、しかし願いの通りにはならない。ズタズタに切り裂かれたこの親心を抱えることに、何の意味があるのだろうか。そこに御父様の勝利圏は介在しているのだろうか。私達がイエス様の位置で、イエス様が十字架の摂理を甘んじなければならなかったように、祝福家庭それぞれの十字架があるはずだ。それはそれぞれで異なるのかも知れないが、私の十字架は明らかに切り裂かれた親心だろう。親心が脇腹を突き刺されて血がドクドクと流れて行く。イエス様がエリエリレマサバクタニ、「わが神、わが神、何故に私をお見捨てになったのですか。」と口にされたように、私は御父様の御前で、この親心が見捨てられましたと叫んでしまうのだろうか。御父様が目を伏せて、黙して応えられないのは良く分かっている。私がこの十字架を生涯背負い続ける覚悟がないなら、もし手を添えてしまえば私の蕩減と責任分担に介入されたことになる。この道はどこまで行っても犠牲の道だろう。犠牲を避けようとしても別の犠牲が尋ねてきて、犠牲を越えても次なる犠牲が待ち構えている。そうこうするうちに、この生命を犠牲にすることなど何の躊躇いもなくなる。

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