人生は登り、下り、そしてまた登り下りというような、振幅運動を繰り返しながら前進している。私が個人的気分、個人的運勢の振幅運動だけに関心を持つなら、人生は虚しい繰り返しだという悲観に主管される。もし完全な個人主義者がいるとすれば、この虚しい繰り返しから脱する為には自分を抹殺するという選択しか残っていない。前進することの意味、すなわち進化することの意味がわからないからだ。個人主義者はそれらの言葉を持ち合わせていない。実は因縁の法則、蕩減原則を理解していれば、気分と運勢は貸し借りの関係と同じように帳尻を合わせられるようになっていることがわかる。気分が昇りへのベクトルを取る時は運勢は下りへのベクトルを取っている。あり得ないことではあるけれども、人生の全ての期間、気分の落ち込み(感情的犠牲)に終始するのを許容し受け入れていたならば、運勢的には貯め一方の人生であったと言える。来世は大きな運勢圏のもとに人生を送る。しかし実際のところ人間は霊的存在、精神的存在であり、縦軸である霊的位階と横軸あるいは平面の社会的広がり(家庭、氏族、民族、国家、、、)の多次元複雑系の存在様相である為に、縦軸のどこに位置し横軸のどこに位置するかで、気分の様相も異なるし運勢の様相も異なる。個人主義者にしてみれば、家庭を持って家族の為に自己を犠牲にして翻弄される気分は最低だと思うだろう。しかし家庭を持って味わう気分は独り者のときの気分とは次元を異にしている。愛の深み、より密度の高い愛の世界に生きている。
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