2013年3月3日日曜日

今日の想い 538

霊界を信じることに留まるのではなく、霊を認識し、霊とわたり合い、霊を主管する霊の主体の位置に立つことで、この世の人間の背後の霊から攻めて、彼らをアベル圏に引き込むことができる。伝道も氏族復帰もその形から、そのイメージから入ろうとすれば、如何ともし難い鋼の鉄壁に押し戻されてすごすごと退散せざるを得ない。しかし私達に残された道が、方法が、氏族メシヤの手中にある。それは霊を動員することだ。協助という言葉を都合のいい言い逃れや責任逃避で使うのではない、確かな霊界の協助を得ることで、背後の霊に働きかけてサタンの城を崩せる。しかし誤解すべきでないことは、霊を動員しようと思えば霊を納得させることが必要で、自動的に協助してくれる訳ではない。霊を納得させる為には私の霊への奉仕、霊への犠牲を霊が認めて霊が私に対して頭を下げるのでなければ、下手に近付いて却って痛い目に合うことになるだろう。私達は清平摂理で先祖解怨、先祖祝福を行った。しかし祝福を受けた全ての先祖が同じ高い神霊基準ではない。地上でも360万双の為に聖酒のキャンディーを配って祝福を与えたが、彼らが祝福を受けてそのままみ言葉を理解し御父様の価値が理解できるわけではない。彼らが前と同じ世界観、認識であることに変わりはない。それは私の戴いた祝福と彼らの祝福とは異なるものだと言うのではなく、あくまで接木は接木であり祝福だが、しかし御父様という本質に繋げられた接点を、強固に力強いものにするか否かは彼ら自身にもよるだろうし、祝福を与えた私達の意識にもよる。同じことが先祖祝福にも言えるだろう。霊界で修練会に参加して祝福に与ったとしても彼らの繋がり具合はピンからキリまであるはずだ。私自身の成長と共に霊を成長させるのも、私自身の教育と共に霊を教育させるのも、その為に先ず霊と接触するのも、氏族メシヤである私を置いて他にいない。その責任感情がない限り、霊を動員し霊の協助を得ることができるなど、努々思わない方がいい。御父様が霊界に行かれて全ての重荷を下ろされただろうか。御父様が人類全ての救いを見ない限り永遠に重荷を背負い続けられるし、ましてや地上天国の基である祖国光復が為せないのにどうしてその重荷を下ろすことができるだろうか。氏族メシヤとしての私達も同じことだ。先祖を祝福しても、家族に聖酒を飲ませても、彼らが御父様の価値を認識し御父様を御父様として慕い侍るまで成長しなければ、死んで霊界に入っても責任感情の重荷は永遠に降ろせることはない。それが親であり父母というものだろう。

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