2013年3月5日火曜日

今日の想い 542

あの子が祝福を受けた、この娘(こ)も祝福を受けたと聞けば、同じ二世を持つ親として心から喜んであげたい。皆、純粋な兄弟であるだけに彼らの嬉しそうな顔が浮かんできて、本当に良かったと思う。思うけれども、複雑な気持ちもある。置いてけぼりにされた寂寥感が胸のあたりから広がっていって、笹の葉ででもなでられるように体がさわさわする。軽い減少感なのだろう、さわさわして寒気がする。すでにこの気分は何度も味わって味わいつくし、私には慣れ親しんだ感情だ。大の仲良しの感情だ。所詮あるがままを受け入れて歩むしかない。私には私が背負わなければならない運命があり、そこから逃げることができないなら、両手を広げて受け入れて歩むことだ。運命の中に飛び込んでこそ、運命が私に浮力を与えて持ち上げてくれるはずだ。嘆いたところで何の益にもならないだろう。それは霊的エネルギーの甚だしい消耗だ。宗教性はあるけれども社会性に欠ける二世か、あるいは社会性はあるけれども逆に宗教性に欠ける二世か、一概には言えないにしても大体どちらかに偏る。一世である親にとっては先の二世は善の位置にあり肯定的だけれども、後の二世に対しては否定的であり子供は自ずと親に反発心を抱いてしまう。同じ祝福二世でありながら、一方は親とひとつになって円満であり、もう一方は親とひとつになれずに戦うことになる。この二世の現実にどう向き合っていったらいいのか。この問題に対して私の親としての接し方が悪かったと断罪してそれ以外の回答を誰もくれなかったけれども、自分も人一倍戦い苦悶して言えることは、宗教性があろうがなかろうが、み言葉を受け入れ御父様を受け入れようが否定しようが、それでも親として子供を包み込むべきだ。子供がわからないことも、否定し反発することも、全て含めて包み込むべきだ。御父母様はみ言葉を受け入れた私達だけの御父母様ではない。いまだ復帰されない者も、御父様を否定する者も、さらに犯罪を犯した者も、等しく子として包み込まれるはずだ。包み込んで、私が子供に対して持つ痛みや苦悩以上の何倍もの痛みや苦悩を、胸の内に抱いておられるはずだ。そうでなければ人類を救いたいという人類の父母として立たれるはずがない。二世として祝福を受け、子供の幸せそうな姿に親として安堵してしまえば、もはや痛みや苦悩はいまだ癒えない御父様の御心情を分かち合う位置ではなくなる。私は子に対するこの痛み、この苦悩ゆえに御父様と共にいる。

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