2013年3月18日月曜日

今日の想い 547

私達の地上天国のイメージも、地上天国を創建するための私達の役目も、何が善で何が悪かの判断も、私達の信仰そのものも、御父母様や御子女様に対するイメージや個人的感情も、今一度洗いなおしてみる必要があるだろう。今、ああだこうだと言える条件を備えたものが食口の中に一人でもいるだろうか。私達は何も言える立場ではない。御父様が聖和された事実、D-DAYである基元節を超えた事実、聖酒を戴いて恩赦を受け再祝福を受けた事実、私達はその事実を内的霊的事実として内的霊的にどう受け取っているのだろうか。私達の内面の変容が見られないなら、それらは只の外的な事実でしかないのであり、御父様を知らない者達、み言葉を知らず摂理を知らない者達と何ら変わりは無いだろう。内的霊的に眠り込んでいるままの私は、外的な認識に留まっていることだけでよしとしている。私達は本当のところ何もわかってはいない。内的霊的事実を知らないし、内的霊的な認識にいたってはいない。わかっていないのに私の判断をしてああだこうだと言い、それによって選択を狭めるならば、真理と神霊が働く私達にどうしてなれるのだろうか。私達、統一食口の初代エクレジアは、確かに外的な意味では何もわかってはいなかった。三年で地上天国ができると信じ、祝福二世達が増えれば、それは罪のない者達、神を証しできる者達であるはずだと、祝福血統の結実をこの世の者達が仰ぎ見るはずだと信じ、非原理であるサタン世界はカタストロフィーに崩れ去ると信じ、今にしては摂理に対する外的な事柄の認識はほぼ外れていた。しかし、内的霊的な事実は当時の方が明るく、今日の認識よりも格段にはっきりと認識していたのではないだろうか。あの当時の希望やみ旨への衝動、御父様に対する熱い想いこそ内的霊的事実に即したものではなかったのだろうか。御父様の口からは勝利であるとか、完成であるとか、み旨が成就されたかのような印象が出され、しかし私達はどうかというといろんな問題が矢継ぎ早に噴出して、全く逆の印象の中に沈み込むというこの御父様と私達の乖離は、地上的なもの、外的なものに心魂を掴まれて縛られ、監禁された状態に私達が陥ったということだろう。私達は心魂を監禁されている。拉致監禁された食口達が心魂の監禁を免れたからこそ戦っているように、心魂を監禁された者の解放の闘いは、その深みにある霊によらなければならない。今の時ほど深い祈祷の必要性が感じられることはかつてなかっただろう。深い祈祷に入り、神霊による心霊の立て直しが急務だ。

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