2013年6月30日日曜日

今日の想い 583

み言葉と私がこれ程に距離があるのかと思う。言葉としてこの手に触れて差し出されているのに、読めども読めども、繰り返せども繰り返せども、堅く閉ざしたその胸襟を緩めて開き、素直に迎え入れてくれることはない。幾重にも重ねられたフィルターが邪魔をしていて、実際はみ言葉の方ではなく私の方なのだが、私自身が堕落的垢で幾重にも塗り固められていて、その自己中心的な磁気があらゆる真実を屈折させ、はね返し、霊的生命をダイレクトには受け取れない。睡眠に入る時、地上意識を持ったままだと自己分裂を起こしかねないように、み言葉の真意を受け止める相対圏になければ、み言葉を屈折して受け止め続けると自己破壊をもたらすだろう。あらゆる論理を駆使するにしても所詮時間軸、空間軸に嵌められたままであって、真の愛は平面的愛に留まらず立体的でありさらに多次元的であるはずで、み言葉を地上の論理で捉えることはできない。反対派は反対はすれども神を信じ霊界を信じてはいると言うけれども、地上で地上的に理解して信じているものは地上を脱する時に崩れて流れ去る。真の愛を受け取って真の生命を得た者でしか、死が私という存在を消滅させるのを越えて永遠をもたらすことができる存在基盤はない。御父様が言われたように、離れる食口は永遠という概念に取り組んではいない。しかし教会に形だけ籍を置いて実質離れている食口も多く、それもみ言葉の生命を受ける位置にはなく、祝福家庭として皇族圏に入り霊的勝利圏が影響を及ぼす位置にもない。増補版は、御父様が手を付けるなと言われた八大教材教本を手を付けたことになるのかどうか。韓国語で語られたみ言を日本語に訳したものでしか受け取れないという時点で、既に欠落している部分や誤解している部分があると思えるのに、ましてや増補版をどうのこうの言える立場に自分は全くない。み言葉との距離が大きい私はその判断ができる位置にはないし、それよりどうすればみ言葉が私を迎え入れて霊的生命圏に入ることができるかで精一杯だ。

2013年6月26日水曜日

今日の想い 582

神様王権即位式のみ言葉で、御父様は或る先生の名前を上げられて公金の問題に触れられた。裁かれた言葉ではなく飽くまで触れられたに過ぎないが、天一国の憲法の一つとして公金問題は重要視されなければならないという言葉と共に、即位式のみ言葉という公的な言葉、歴史に残る言葉の中にその問題として名前を上げられたのであり、上げられた本人にすれば居た堪れないだろう。もし私が皆の知れ渡る御父様の公的お話の中で、同じように悪なる意味で名前を上げられれば逆上するかも知れない。それを思うとその先生の心境が想像を絶するに余りあることはその通りだ。死んでも死にきれず、生きるにも全否定されたような立場で生きるには、それからの態度や行動を取らざるを得なかったとも思える。しかしその難しい状況に追い詰めてしまうことを御父様は予測されなかったのだろうか。私は必ず予測されたはずだと思っている。それでも敢えて名前を上げられた。名前を上げて結局追い詰める形になった。そして皆が知れ渡る問題に発展して今に至っている。心情血統圏のみならず実体血統圏に入れられることの重大さ恐ろしさがそこにある。御父様の実体的な血統と因縁を結ぶことは至上の栄光であるけれども、その栄光に与ればそれ相応の犠牲を払わねばならないということだ。身辺をとことん整理して、心情も細部に至るまで分別されて、栄光とのバランスをとらなければならない。私達は暴かれた罪を裁きの目で見ているけれども、本当はそんな余裕等ない。御父様と同じ血統圏にあるものとして、御父様と共に天国にあると喜ぶだけの私ではなく、必ずその栄光の高みにバランスを取らせる犠牲を差し出さなければならないのが道理だろう。神様はルーシェルをとことん貶めたはずで、ルーシェルにすればその愛の減少感から追い詰められてその行動を取らざるを得なかったという言い分がある。その言い分がサタンの一大帝国を築き上げた。同じようにナンバー2の位置におられたその先生も天使長の位置で貶められた。貶められることを御父様と私は一体存在だと扱われている故にそうされると、それを敢えて歓びとする者にならなければならない。本当の精誠は感情を蹂躙される位置を甘受しながら心情を受け取る。神様はルーシェルをどう思われていただろうか。御父様はその先生をどう思われていただろうか。御父様はその先生がどういう態度を取られたとしても死なずに生きてくれたことを頷かれたはずだ。その一大事件の一幕を通過することで喚起されるものがある。私達が目覚めるものがある。ルーシェルが神様の元に帰った時、どれだけ神様が喜ばれただろうか。その先生が御父様の元に帰る時、どれだけ喜ばれるだろうか。私達が本当に悔い改めるなら、その時を待って必ず帰って来られるだろう。

2013年6月24日月曜日

今日の想い 581

この店は誰の店かという所有権が存在する。そして店を経営する経営権が存在する。所有権と経営権のラインをはっきりさせることは所有権を持つオーナーが決めるべきことで、経営権を与っているマネージャーが決めるべきことではないだろう。御父様が聖和される以前にUCIの問題は起こったが、それでもまだ聖和以前であったから御父様のその問題に対する見解ははっきりしていてラインもはっきりしたが、御父様不在となられた今、教会のその他いろんな財産なりビジネスなりの所有権の問題があちこちで発生している。法規や運営上、名義人が誰であるかははっきりさせなければならないので、誰かの名前を使う訳だが、しかしその誰かはペーパーに記されているだけのことであって実質の所有ではない。御父母様の名義にしてしまえば食口誰もが納得する訳だが、しかしそれを御父様は望まれず、責任者や経営者の名前を置かざるをえなかった。御父様御自身が公金に対して明確であられた。恐ろしいとも話された。名義人になっている者は公金に対する恐ろしいという御父様の感覚と認識を持たなければ、下手に名義人に担ぎあげられるべきではないだろう。霊的死活問題、堕落以上の重罪を背負うことになってしまいかねない。この店に関して言えば、出発当時の責任者が名義人になっていたが、ライセンスの確保の問題もあって今は私が名義人だ。経営権を持つ私はペーパー上の名義人であって実質の所有はない。私がどれほどその事を自覚していても、自覚しているその私が信じるに足る、要するに絶対的に信じるに足る者であると思うべきではない。私は変わりうる。それも豹変してしまう。もし家庭としてまとまった金が必要になったとき、愛する誰かの生命に関することが起こった場合、公的なものに手を付けないと言い切れる、絶対的に信じるに足る私ではない。御父様ですら恐ろしいと言われるのに、ましてや堕落の性(さが)を持つ悲しい地上人間だ。そこを認めないと公金が私の命取りになる。霊的生命線は気分で測られ決められるものではない。天国と地獄、御父様が許可し許される圏とサタンが関与する自己中心圏の間には、寸分も狂わず引いてある霊的死活を分けるラインが存在している。それも見えずに公的なものの名義人になるべきではないし、わからない誰かを名義人に担ぎ上げるべきでもない。

2013年6月21日金曜日

今日の想い 580

これからの献金への意識、献身への意識を問われているのであって、過去の事実は私がどう捉えて内面に取り込んでいくかが本当の事実で、もし騙されていたと結論付けるなら内面に恨みを抱え込むだろうし、私の精誠として差し出したと結論付けるなら愛には愛をもって報われるだろう。献金の重みはその額の重みではなくて、そこに投入された精誠の重みを量るのでなければ意味がない。自分がどれだけその献金に精誠を投入したかは本人が理解しているのであって、他の者の献金を讃美はできてもそこにどれだけの精誠が込められたかは想像だけであってわかるものではない。ましてや額の大小で精誠が量られるものでもない。借金までもしてというけれど、敢えて言えば借金することがこんなに簡単なものだと、利子を付けて返さなければならない責任を軽んじて借金したのであれば、額はそろったとしても精誠が込められたかどうかは本人がよくよく問う必要がある。精誠として捧げたのであれば必ず心情を受け取る。金の集め方、金の動かし方、金の使い方、そこに人の手が加わっているのであり、それは欲が関係し想いが関係し勿論恨みも関係する。実に生々しい生きものであって、どう扱うかで善にも悪にもなるし美しくもなり汚れてきたなくもなる。もし騙されたと結論付けるような風潮が蔓延し始めると集められた献金は隠れていた恨みの牙を剥いて暴れまわるだろう。献金と捉えて集められたお金は様々に使われた。不動産も購入され、ビジネスも立ちあげられ、もちろん大会の費用や渉外の費用にも多くを宛てられた。全てが実って形あるものとして残っているかと言うと、多くは流れて行ったように見える。しかしお金が流れて行けば投入した精誠も流れていくのだろうか。そうであれば精誠を込める意味はなくなる。精誠を差出すことで心情を受け取ることを信じない、いや心情を受け取っていないならそれは精誠ではなかったと結論付けることになる。生涯を持って捧げる精誠であるのに、人生の道半ばで騙されたと結論付けるなら、私の生涯の全てを無駄なものとして掃き捨てる立場に立ってしまう。今のような、あることないこと全てが降りかかってくる今だからこそ、精誠が精誠として生きてくる。僅かな精誠であっても莫大な精誠として数えられる。

2013年6月20日木曜日

今日の想い 579

日本の教会員全てが余りにも無知で、その無知さゆえに中心的位置にある者達の隠れて見えない横暴に加担している馬鹿者だと言っているのと同じだろう。私達全てが、それこそ洗脳されたか黒魔術にでもかかったまま、言われるがままに献金し続け、活動し続けてきたとでも言うのだろうか。正しい情報を得て早く目覚めてくれと肩を叩いているつもりか、それとも小突いているつもりか。御父様に対しても、周りの者たちの情報を無知にも鵜呑みにしておられたと、あたかも俄かボケのような扱いで見ていたように、やはり日本食口に対しても余りにも無知だと彼らがさも利口であることを自負している言い分としか思えない。善意を悪用されてしまえば確かにそれが善意である以上報われない。善意というようないつも道徳的言葉を用いるのが常套手段だが、しかし私達の歩みをただの善意と捉えられては余りにも情けない。人生をかけ、生命をかけ、自身をも否定して、御父様の骨肉に入って心情を受け取る路程を、善意と捉えられてどう言葉を返したらいいのか。本質を理解しない者、霊界がわからず心魂の次元でしか捉えられない者にすれば、言いなりのままの無知人間に見えるのかも知れないが、私達はそんな低次元で歩んできたのではない。彼らが言うように、私達はだまされるがまま外的にも内的にも拠出し続けてきたのだと結論付ける者達が私達の中にどれほどいるだろうか。それは明らかに霊的生命としてのみ言葉が理解されていない。真の父母としての御父様の価値がわかっていないしわかろうともしていない。救いを渇望する自分自身をも理解していない。ようするに霊的なことがわからないし心魂と混同している。食口を見くびるべきではないだろう。何もわかっていない者達のように思えて同情さえ覚えるのだろうが、御父様の霊を宿した、すなわち心情圏に立った者達がどれほど叡智を受け取り、社会や世界を大改革する力を備えているかを近い未来に思い知るだろう。少なくとも彼らが案じているほど馬鹿でもないし無知でもない。

2013年6月18日火曜日

再度、MUSTからWANTへ (2)

私達は天宙統一という御父様の大命題を与えられて、それに向かうべく歩んできた。しかし見えて証しできる地上基盤がどれほど為されたかを問う時、伝道が進んで会員が爆発的に増えた訳でもなく、各界それぞれに多大な影響を及ぼす人材を輩出してきた訳でもなく、それどころか氏族圏の復帰、氏族圏への影響すらままならない状況は今も変わってはいない。今までの歩みのいつの時代であっても、これからは、これからは、という希望の人参をぶら下げてはきたが、内的霊的なことは置いておくとして、地上の人参は未だくわえてもいない。それは私達にとって大命題が余りにも漠然としていて、理想への現実感が希薄すぎて地上に足が着いていない状況にあるからだ。それが教会自体の様々な弊害、問題にもなっている。清貧指向、社会主義的平等意識、果ては共産主義的指弾等々、二世が教会の負の遺産の部分をも踏襲していくとなると、余程内的霊的に顕著な二世か、逆に生活力さえ欠ける二世かのどちらかしか残れなくなってしまう。未だに、地に足を付けて外的に成功し、この世の人達も羨む存在になることが信仰の妨げになったり、み旨に反する立場を取らざるを得ない、すなわち大命題から遠ざかるとするなら、地上基盤は遥か遠い未来にしか築けないだろう。伝道だ氏族復帰だと叫んでも進展するわけではなく、それよりか見せて誇れる生活、さらに与えて余りある生活を築いた方が人も氏族も寄って来る。ヤコブがエソウにしたように与えて屈服させれば余程こちらの方が現実的だし伝道、氏族復帰の近道でもある。過去の路程を否定しているのではない。御父様の聖和の精誠、御母様と御家庭の犠牲の精誠、兄弟姉妹たちの内的霊的精誠があればこそ基元節を越えてWANT感情、WANT意識をしてみ旨に直結できる時代圏を迎えることができたと捉えるべきだ。だからこそこれからは意識の180度転換が必要だ。相も変わらずMUST感情、MUST意識で、献金しなければならない、伝道しなければならないという意識のままでいるとなると、過去の或るひと時の貢献は報いられるとしても、時代の流れからは遠ざかって結果を残せないまま、その位置に固着して留まり続けるだろう。

再度、MUSTからWANTへ

自分の内なる世界の方が主体であり、外の世界が対象だという論理はわかるとしても、現実として外の世界を主体に位置付けて生活してしまっている。そしてそのことにいつまでも気付かないでいる。~しなければならないというMUST感情は、その感情をどれだけ強く膨らませてもその背後にはしたくないという否定感情がますます働く。これはより外の世界に主管されていて、すなわち外の世界が主体であって、本来主体の位置に立つべきより内なる世界の解放が為されない。先天時代に於いて、今までの献金摂理はそれで良かったのかも知れないが、時代圏が変わってしまった今、そのMUST感情、MUST意識を持ってしてはうまくいくはずがない。MUSTからWANTへ、、。これが内なる世界の主権奪還であり、願われる伝道であっても、氏族復帰であっても、南北統一祖国光復であっても、~したいというWANT感情に燃え、WANT意識に衝動として駆り出されなければ勝利は覚束ないだろう。実際我々よりはこの世の人たちの方が内なる世界を主体に位置付けて生きている場合が多い。もちろん内なる世界にも程度があって霊的世界という深みにまでは至っていないとしても、より内的な心魂を主体にして生きている人は意外に多い。ヒマラヤ越えをするアネハ鶴の精神を学ぶべき私達だが、80の肉体をしてヒマラヤ登頂を勝利した三浦雄一郎の方が、私よりは余程アネハ鶴の精神を学んでいるのかも知れない。彼は登頂成功に並々ならぬWANT感情を持った。糖尿も高血圧も持ち、さらに高齢で骨盤骨折までしながらも、それでも彼の目標へのWANT感情は失墜しなかった。それどころかますます高みの感情を抱いた。普通であればそんな状態での登頂成功という目標は無謀だと最初から諦める。彼の中にその感情はなかったのだろうか。否定的思いが次から次と襲ってきただろう。しかし彼は内的アベルである目標へのWANT感情をしっかりと立て、内的カインである否定的思いを屈服させて肉体的ハンディを克服していった。WANT感情は肉体ですら合わせていった。克服しなければならないという思いより克服したいという思いの方が遥かにその力を発揮する。

2013年6月16日日曜日

今日の想い 578

1993年、済州島の女性修練会で語られた四大心情圏と三大王権のみ言葉は、神様自体内で成長してきた内容をアダムエバという神様の実体として展開される、創造への神様の意志を語られていて、創造原理の意志版だと思っている。しかし語られた書面を追っていくだけでは限界があり、何とも歯がゆい。図を描いて説明しておられるので、できればビデオに収められたものを見たいと思うのだが入手できない。添付の図と言葉とをタイアップしながら読み進めても、ここで、とか、こちらがこう近付くと、とか、示された動きを見ない限りはゲスの領域を越えられず、関連するみ言葉を二次三次的に探し出そうとしても、膨大なみ言葉から見つけ出さないと、と思うと途方に暮れる。やはりこういう場合は霊的感性をして霊的なみ言葉図書館で指し示してもらうしかないのだろう。しかしながら今の私の霊的感性では、指し示されるどころか図書館まで辿り着くことすらできない。敢えて言えば、霊的感性ではなく神霊的感性が要求される。食口は様々な次元(ヒエラルキー)存在の集まりだ。道徳的な者、良心的な者、霊的な者、更に神霊的な者。またそれぞれに知的な者、情的な者、意的な者がいて地上界という平面に投射されると、同じ言葉で遣り取りしても全く異なる次元、概念であるから話が噛み合わない。どちらかが下るか上がるかしなければ言葉の氾濫だけを招いて一体化は覚束ないだろう。み言葉の言葉の概念を私の中にあるものから取り出して宛がうと、み言葉に流れる真の生命も真の愛も受け取れない。本来言葉の概念さえもみ言葉の中から取り出さなければならない。だから理解していると思える私が捉えたみ言葉も仮定的なものであって、私の次元を高めなければ本当の理解には至らないという謙虚な気分、尋ね求める気分が常になければ、み言葉理解の正しい方向に向いてはいない。神様はみ言葉、すなわちロゴスであられ、その根源から真の愛、真の生命、真の血統が流れだす。夫婦として生殖器が交わる点は本宮、三大王宮であり、神様の愛の基地、神様の生命の基地、神様の血統の基地である。そうなると、み言葉は神様の性相の現れであり起点であり、夫婦一体の生殖器は神様の形状の現れであり起点であって、み言葉中心の夫婦一体圏は性相としても形状としても神様が住まわれ、そこを起点として展開され活動される。

2013年6月13日木曜日

今日の想い 577

ドストエフスキー、カラマーゾフの兄弟にこんな部分がある。ヒョードルが酔いしれているとき妻の訃報に接し、彼は妻から開放されたことを喜ぶと共に、同時に開放してくれた妻を思って泣いた。人間というものは悪人でさえも無邪気で単純なもので、我々自身にしてもやはり同じことだと作者は言う。御父様が聖和された報せを受けたとき、私達はどうだっただろうか。いや私自身はどうだっただろうか。本当に御父様のことだけを想って涙したと言えるだろうか。少なくとも三度の食事はちゃんと摂っただろうし、飯が喉を通らないほど悲しみにくれた訳ではない。一方では悲しんでいるけれども、その一方ではやはり食事もちゃんと摂って生活は生活で滞りなく流れた。X-DAYのその時は後追いで死ぬかも知れないとまで思っていた私は、ずうずうしくも食べて寝て生活している自分を豹変する不思議な生き物のように思えたが、しかしそれが現実だった。為に生きる真の愛の教えを学びながら、しかし未だ完成されない堕落性溢れる人間であって、家庭の為という想いはあっても、それ以上の全体の為となると思い入れが極度に薄れてくる。御父様は摂理、また摂理で私達を引っ張り、息つく暇もないほど追いまくられてきた感が強く、ひょっとしたらこれで息がつけると安堵の胸を下ろした部分も幾らかはあったのではないだろうか。確かに私は御父様が聖和された報せを受けて、祭壇の前に座りひとしきり涙を流した。しかしその涙の中に胸を撫で下ろす感情を挟む隙間がなかったかと尋ねられると否定できない自分がいる。どれほど悲しく、どれほど苦しく、それが最愛の家族のことであっても、人間は自分の中の隠れた部分に、惨忍な自己中心的部分を無邪気にも持っている。無邪気にも、と記したが事の重大さの背後には往々にして無邪気な感情や行為が隠れている。思慮のない唐突な感情であり思慮の無い唐突な行為だ。堕落の過程で一端愛に火が燃え上がると戒めの言葉など無力だ。火がつく前の戒めであり、エバがどれだけ思慮深く戒めに対したかはよくわからないが、愛の減少感がルーシェルの動機だったのに対し、エバの動機は神のように目が開けることを望んだことだが、それが思慮深いものというより唐突で衝動的な無邪気さのように思えてならない。

2013年6月12日水曜日

夜昼、補足(2)

「私は有って或る者」、「「私は有る」という方が、わたしをあなたがたのところへつかわされました」と出エジプト記3:14にある。これはモーセの質問に答えたヤハウェエロヒムの言葉だが、民にどう伝えるかと問われてこんな説明は馬鹿にしているとしか思えない。しかしこれは論理としての言葉ではなく意志としての言葉であり、神々ではなく一なる神、主なる神だと宣布された言葉だ。人間は主なる神なくしてはアダムエバに分化された人間としての愛の理想は絵空事になる。神々ではなく一なる神だと決意し覚悟するのでなければアダムエバの分化はあり得なかった。意志の神であるとは決意と覚悟の神だということだ。そしてその意志とは愛で主管された地上理想であり、愛の主管とはプラスとマイナスの一体化であり、よってエロヒム人間からヤハウェ人間としてのアダムエバの分化を果たした。勿論分化が為されなければ堕落はあり得なかった。しかし分化がなされなければ地上理想も勿論あり得ない。昼の神様であるヤハウェエロヒムは神自身が堕落した訳ではないが分化することで堕落と関係したのであり、夜の神様であるエロヒム群は堕落とは全く関係がない。御父様の出自は何処だろうかと問う時に、堕落とは全く関係のない立場であると公言された時点は夜の神様に出自を既に見ていると思える。御父様は八段階のそれぞれで完成されたのであり、それは位相を高めて行かれたということであり、夜昼の神様の話が御父様の口から出始めた頃にヤハウェエロヒムの位相からエロヒムの位相へと高められたはずだ。位相が高められるという意味はその御身体に位相の本体が住むことであり、夜の神様の位相に立たれて堕落と全く関係のない遥か高みの神霊が住まわれたということだ。基元節の祝福が堕落とは全く関係のない、戒めのみ言葉以前の立場に於ける祝福だと説明されたと思うが、夜の神様の位相の位置に立たれた御父様の祝福であり、それを思うと余りにも尊い祝福を戴いたという感情と、余りにも恐ろしい祝福を戴いたという感情が湧き溢れる。この記述が的を得ているのかどうかは訪問して下さる方々の判断に委ねるが、どちらにしろ難解な八定式以降のみ言葉理解の助けになればいいと思う。

2013年6月11日火曜日

夜昼、補足

もし昼の私のみならず、夜の私も意識を持つとしたら、夜の私の在り様を把握でき夜の神様を理解できるかも知れない。先のブログのように説明してしまうと論理に偏ってしまい、どうしても一なる神様ではなく複数の神様が存在するように思えてくる。しかし地上の様相と霊界の様相が全く異なっているように、天宙を創造した神界の在り様を地上的思考で測り知れるものではないことだけははっきりしておく必要がある。私はあくまで一なる私であり、霊界では私は広がっていって多数の私が存在すると説明しても、それは地上的見地から霊界を観察して言えることであり、実際意識を持って霊界に踏み込んでいって地上と同じような感覚で個と複数を区別できるかは疑ってかかるべきだ。家庭をもち子供が出来ると私という存在は一変する。親になる以前の私という存在と親になった私という存在は次元が異なっている。親は子供の中に自分を見出して生きるから親となる。私を否定されても子供が肯定され受け入れられるならそちらを取る。子供は親に取って第二の私になる。そして第二の私のほうが第一の私よりは重要だ。この時点で私は既に霊的に見れば個の存在ではない。妻の存在はどうだろうか、孫の存在はどうだろうか、と問う時に第三の私、第四の私が存在し得る。だからと言って私という存在が一なる存在には変わりは無い。それは次元を一気に高みに届けて心情界をして納得できる内容であり、心情界では私は一個の存在であると共に複数存在だ。よって先のブログの説明が矛盾することは無い。御父様の不可解な矛盾するかのようなみ言葉も、地上的概念一辺倒で読み解こうとするから無理があるのであり、外的には次元の高みをして、内的には心情の深みをして、読み解く必要がある。気の遠くなるような人類歴史をもってしても理解不可能だった内容を差し出されて、一昼夜で理解できるなどと傲慢にも思わない方がいいが、諦めてしまえば差し出された宝を投げ捨ててしまうのと同じだろう。神様の無形実体内で神様自体が成長し展開してきた内容を、アダムとエバという有形実体をして展開される。いわゆる四大心情圏の構想理想は神様自体内で既に内的に為されている。内的に自体内で子女の愛が為され、兄弟の愛が為され、夫婦の愛が為され、そして父母の愛が為されている。それはどういう風に理解したらいいのか。自体内で親を持ち、兄弟を持ち、妻を持ち或いは夫を持ち、そして子女を持つとはどういうことか。それは堕落とは関係のなかった夜の神様が為されたことであり、その次元の高みに昇りつめ、心情の深みにまで分け入るには今の私の基準では余りにもおぼつかない。

昼の神様、夜の神様

昼の私は私という意識、自我意識を備えた私であり、夜の私は私という意識のない無意識の私だ。人間は私という存在を他と区別しているが、区別している私という存在をどれだけ私が知っているかは甚だ疑問だ。感情し、思考し、意志する私が存在することはわかっているけれども、思考はこうあるべきだとしながら感情がそれに反することもあるし、感情は意志への衝動を掻き立てるのに思考が良しとしない場合もある。人間は私という存在を一なる存在と認識しながら、それであって様々な方向性を内包している、敢えて言うと矛盾した存在だ。様々な方向性を内包しているのであれば私は本来一なる存在ではなく、複数存在なのではないか。複数存在の統一的私であって、その一体化に歪みが生じることで異なる方向性を内包する矛盾的存在になったのではないか。私という存在をそう仮定することができる。昼の私は私という意識を持ち一なる存在と認識しているから、私の中に異なる方向性を内包していることを私は堕落していると認識できる。私は一なる存在であるべきだと言う言葉と、私は堕落しているという認識は相通じ合う。もし私は複数存在であると言うなら、私は堕落しているとは言えず、私の或る部分は或る方向性を持ち別の部分は相反する方向性を持っていると言うに留まり堕落しているとは言わない。もちろんそんな存在が存在足り得るかどうかは相当な疑問だが、、。夜の私は私という意識を持たない存在だから一なる存在なのか複数存在なのかはわからない。意識をもって眠りに入ると私という意識が引き千切られて分散していくのを覚えるらしい。それはもはや狂気の世界だ。自我意識をもつ人間が狂気にならないように、眠りに入る時は地上界と霊界との境界の天使が人間を無意識にさせて心魂と霊を体との癒着から解き放って霊界に送る。昼の私と夜の私のこの違いを理解しようとすれば昼の神様、夜の神様への理解の糸口が掴めるはずだ。「神はまた言われた、われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、、、」とあるが、この複数形を神様と天使達と捉えるのが一般的かもしれないが、おそらく自我意識、というより一なる存在であるという神我意識を持つに至るそれ以前の神様の複数的在り様をわれわれという言葉に含めていると思う。聖書の原書はエロヒムとヤハウェエロヒムとをはっきりと分けて表記している。創世記1:26の上記の神はエロヒム、即ち神々であり、このときの神々が造った人と、やがてヤハウェエロヒム(主なる神)から生きた息を吹き込まれて生じた人間とを区別する必要がある。そして余りにも突拍子もなく反感を覚えるかも知れないが、シュタイナーが霊視していることは、この人の創造を両性具有としている。創世記1:27に「神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」とあるが、これを男性人間、女性人間と分けて創造されたという記述ではなく、原書に忠実であると男女一体人間に創造されたということだ。性の分化は創世記第2章の6日目以降の記述であるアダムの肋骨を取ってエバを創ったヤハウェエロヒムの第二段階の人間創造だ。これが主なる神という言葉がここに出てくる理由であり、このヤハウェエロヒム(主なる神)を複数的エロヒム(神々)在り様の夜の神様に対して御父様は昼の神様と認識しておられるはずだ。

2013年6月9日日曜日

今日の想い 576

万物の日の朝だ。前日店が閉まる間際に買い揃えた供え物が家の祭壇に並べられている。この地上世界に肉体を戴いて生きていると言うことは、万物の恩恵なしにはあり得ない。さも当然のように、万物からすれば傲慢極まりない態度で口にもし、まといもしているけれども、万物が人間に対して反乱すれば人類はひとたまりもなく、明日への存続すら危ういだろう。サービス業をみ旨とし生業にもしているけれども、どれほど人に対してサービスの付加価値を与えてその代価を受け取るにしても、遣り取りしている万物がなければなりたたない話で、万物への配慮は常にビジネス活動の根底になければならない。商材もさることながら、この建物から加工機器、備品の一つ一つに至るまで細かな配慮が要求される。冷蔵庫のひとつが故障すると立て続けに他の機器にも問題が発生することは30年営業していて理解していることで、機器どうしの見えない繋がりが存在していることは明らかだ。問題が発生した場合、先ず全ての機器を再点検し洗浄もして、汗を流す具体的な配慮や行動が万物への愛であり主管となる。店の中であることは大きくは地球環境にもあるだろうし、環境破壊、環境汚染をそのままにしているけれども、このままでは地球規模の万物の反乱が立て続けに起こって当然だ。人間は霊界と地上界がひとつになるにつれて精神的影響がさらに顕著になるが、人間の下に位置する万物からも突き上げられて、人類の存続の為には人間の改革を避けては通れなくなる。万物の日の日曜日、家で啓拝を終えるとそのまま店に行き、フロアの清掃をすませ、名節の日はいつもそうしているように御供え物を準備して仮設祭壇に供える。御父様が聖和されてから尚一層祭祀行事が意味を為してくる。キッチンから遠目に見ていた御父様が寿司を頬張られる御様子がありありと再現される。御父様はこの店と共におられる。51回目の真の万物の日の朝だ。

今日の想い 575

下等動物から高等動物に進化し、高等動物から人間に進化していったと考える進化論者。進化論者の多くは唯物論者でもあって、先ず体ありきで心があると信じきっていて、彼らの中に疑う余地が全くないのであり、性相的なものが形状的な原因であるという事実に立てない。宇宙と人間の根源を物質として捉えている。この体がなくなると自分という存在はなくなるという、恐怖の認識に至らない恐怖に立ってる。前にも言及した霊的無知の無知だ。本人は通常の思考に照らしてみて神を否定し霊界を否定しているように見えるけれども、先ず神と霊界を受け入れられない譲れない感情があって、その感情が進化論、唯物論を正しいとする思考を組み立てている。恐怖の認識に至らない潜在的恐怖がわざわざ偽りを正しいとする思考を組み立てている。神も霊界もないなら、思考に照らしだす理性が何の意味があるのか、わざわざ進化論、唯物論を組み立てる意味はひとつもない。無意識にも理性的理解を要求するのは潜在的恐怖から逃れたい意思表示以外の何物でもない。もし進化の過程で動物的本能から心魂も進化させたのであれば、わざわざ悩み苦しむに至った今の心魂は進化ではなく退化だ。無神論者を伝道するには、先ず恐怖の認識に至らない恐怖の状態に自分がいることを気付かせてあげることができるかどうかだろう。その気配も無いならその人物は未だ終末には至っていない。終末感がないならどれほどみ言葉を語ってもざるに水を流し込むようなものだ。特殊な宗教への偏見を抱いたまま、思考のお遊びの圏内に留まったままでいる。聖書、特に創世記に記されている内容が、科学的思考に当て嵌まらないからと、科学的論理で理解できるように説明を求めるのも無神論者の常だが、科学万能信仰が死を前にして何らの力も発揮できないことを直前にして思い知る。死が近くなると潜在していた恐怖を認識せざるを得なくなる。み言葉を受け入れた私達が注意しなければならないことは、信じている自分に安心してそれ以上求めようとしないことだ。神様を信じ霊界を信じていてもその度合いはピンからキリまである。更に信じることを超える私にならなければならない。信じることから知って実感する者にならなければ、唯物論者と同じように、やはり恐怖の認識に至らない恐怖に立っている。

2013年6月8日土曜日

今日の想い 574

80を超えた親の方がよっぽど気力も体力もあるだろう。検査で病院まで連れて行って帰ってきたが、夕食を少し口にしただけで、席を外してソファーに寄り掛かると、うな垂れたまま寝入ってしまった。ひどい貧血なのに検査で何本も血液を取られてしまったと言うのが、帰りの車の中の彼女の恨み言だった。採血したのならその分継ぎ足して置くべきだろう。生気のない体を揺すって起こし、ミルクと熱いお茶を少し飲ませてから、床に就くように促した。立ち上がるのも大変そうだったが、物も言わずに、背中を丸めたまま隣の寝室に摺り足で移動していった。彼女の足場の時間サイクルは何倍も早いらしく、どう見ても親よりは早足で歳を重ねている。生きたい執着は人一倍だろうに、どうしてそんなにサイクルを早めてしまうのだろう。いろいろと提言もし、しつこいくらいに薦めてもみたが、返事だけは返るけれども一向に行動に移す気配は無い。頑なで素直でない彼女の内面に、隣にいる私は途方に暮れてしまう。けれども、彼女を見ていて神様も私をそんな風に見つめておられるだろうと、神様の気持ちが少しはわかる気がする。それでも神様が私を裁かないように、私も妻を裁けない。二人とも頑なな心を抱えた、同じ悲しい人間だ。労わり合い、慰めあって生きるのを神様は咎めはしないだろう。あれもしないこれもしないと声を荒げる神様ではないだろう。お互いの傷を舐めあい、少しばかり癒されて、そうして少しばかり為を想う余裕が出てくれば、またその時に出来る限りの精誠を供えていけばいい。やはりまだ離れることのない、当分無縁になりそうもない人間の悲哀を今晩は味わいながら、妻の足をもみ、妻の体をさすりながらそのまま休む事にしよう。

2013年6月6日木曜日

今日の想い 573

今日一日の魂たちの喜怒哀楽を、闇の深みに吸い込みながら、夜は闇を更に濃くしていく。人間が魂の存在として、滲み出させ、染み出させた喜怒哀楽という魂の分泌物を、深い闇は舐めていく。舐めて啜り込む魂の味わいが、甘くあっても辛くても、旨味でも苦味であっても、闇は選ぶことなく味わい尽くして飲み込んでいく。喜怒哀楽という分泌物を、発散を、あるいは爆発的放出を、静まり返った就寝の間に、或いは眠れぬ長い夜の間に、闇の舌で嘗め尽くされる。闇の、舌舐めずりの音がする。背中の辺りを舐められて、闇の舌のザラザラした感触を覚える。優しく撫でられるようでもあり、悪寒を感じてぞくぞくするようでもある。闇の深みに吸収された魂の味わいが、朝になると、どう言う訳か私の深みから全く別の味わいとして湧き出てくる。闇の深みと私の深みは意識の届かない部分で繋がっているらしい。闇が味わい消化したものが夜となって朝となり、魂の根底に注がれるものとして届けられる。私が喜び過ぎると、夜を越えてどこか空しさとして残される。激しい怒りが夜を越えると、どこまでも奈落の底に墜ち込んでいく気分になる。身を絞られるような哀しみが夜を越えると、ひとしきり降りしきった後の空のように、欲を持たない軽やかで浮かぶような胸の内になる。闇がどんな魂の味わいも拒否しないように、私は朝に与えられるものを拒否しない。闇がどう消化し、消化して夜が朝に用意するものが何であっても、受け取って楽しむ器を私は備えている。夜を越えて朝を迎えた私は、きのうとは異なる新しい私だ。私が新しければ相手だって新しい。今日には今日の関係性が備えられる。

2013年6月5日水曜日

今日の想い 572

血統転換された私達は、何をしてサタンの堕落の血統から神の本質の血統に変えられた事実を認識していくのだろうか。どこまでも血統転換された私だと信じ続けることだけで、認識に至るものを受け取ることはできないのだろうか。私の中の明らかな変革を体験し、その内的霊的な変革がより外的な心魂作用に現れ、それが事情圏環境圏を変えて行く、霊から心魂へ、心魂から地上へ、不通が解消されて霊的事実が直接的に地上へ現れる、そんな時代圏に既に入っているはずだ。心情転換されて、自体自覚から他体自覚へとその霊的認識を私達が獲得しない限り、いつまで経っても信じ続ける以外なく、宗教を越えることはできないだろう。私達は、御父様、御父様と、御父様を呼ばわるだけの群れであってはならない。天に向かって御父様を呼ばわる私から、御父様を私の中に迎えて御父様が私をして生きて働かれる私になるべきだ。生きて働かれる御父様は闘われる。私の中で闘われる。心身一体の闘いをされ、夫婦一体の闘いをされ、父子一体の闘いをされる。闘いは文字通り闘いだ。剣を投げ込まれる。私の内的戦いが顕著になり、夫婦間の今まで触れなかった深みを浮き彫りにされて、本質的夫婦一体の闘いを見るだろうし、二世として立て三代圏の確立へ拍車をかけられる。教会という私の外の問題を傍観者的に見ているけれど、本当の戦いは私の中にある。他体自覚の心身一体が為され、他体自覚の夫婦一体が為され、そして他体自覚の父子一体が為される。この世的地上的な良き私、良き夫婦、良き親子は一端は剣を投げ込まれて焼き直されるだろう。それが御父様を私に迎える意味だろう。個人も家庭も氏族も、大改革、大手術が始まる。もちろん先ずは食口であり祝福家庭の話であって、それ以外の世界人類は我々の中心的摂理の内的経過を外的経過として為す術もなく見届け受け入れるしかないだろう。ここにきて関係性の中に闘いを厭み平安を思慕する食口は離れざるを得ない。それは心と体の闘いを無視する者に括られるからだ。