2013年7月4日木曜日

今日の想い 587

御父様の右腕であった先生の背信が直接の原因となって、御父様の聖和は基元節を待たずに起こってしまった。それは多くの食口の認めることだと思うが、さらに突っ込んで言うと、御父様は敢えて基元節の前に聖和されることを意志されて、その決定に合わせて背信せざるを得ない位置に先生を追い込まれていかれた。そういう解釈もできる。と言うか、御父様の再創造の視点に立てばその方が正しいとさえ思っている。カトリックでは旧約聖書の中の一つとして認めているが、普通の聖書には加えられていないマカバイ記という聖書の続編がある。マカバイの7人兄弟とマタティアの5人の息子達の、イスラエル民族に生命を捧げ、異邦人によって汚されたエルサレム神殿を取り戻すために力強く戦ったことを記されている。どうしてイエス様を迎える直前のイスラエル民族の物語、旧約の頂点とも言うべきこのマカバイ記が載っていないのか不思議だが、12人の勇士達、その中でもユダマカバイという人物の突出した献身ぶりが描かれている。そしてシュタイナーの霊視によると、このユダマカバイの心魂がイエス様の12弟子の内の最も信頼を置かれていたユダに受肉したと明言している。原理的に言えば、イスラエル民族に心魂も生命も捧げた旧約のユダが、使徒ユダに協助して、ユダの裏切りという最も過酷な試練を通過しなければならなかった。旧約のユダはローマと同盟を結んだのであり、イエス様復活の後、弟子達によるキリスト教はローマ帝国によって世界に広まっていったのだが、その時に旧約のユダ(使徒ユダでもある)が協助してローマ要素とキリスト教要素とを融合していった。善なる歩みをしたのなら、協助するにも善なる歩みをするように協助するものだと思い込んでいるが、十字架摂理を負わなければならなくなった時点で、その十字架に誘う、誰もが嫌う悪の役目を誰かが負わなければならないと言うときに、過去に最も功労を積んだ者がその役目を担うという協助摂理の不思議、神様の摂理の奥深さを思わずにはおれない。サタンと交渉しながら進められる摂理が、我々が考えるような単純なものではないことがよくわかる。イエス様への裏切りの罪を背負うのなら、人類全ての罪を背負った方がまだマシだと言うような位置で、その試練を通過したからこそ全世界に広がるべくキリスト教の宣教がユダの協助でなされていった。そうすると、御父様が最も信頼を置かれていたNO2であった先生の背信が読み解ける。先生の背信は、全祝福家庭の不信仰を御父様がご覧になって、全祝福過程を代表する先生を背信へと導いていかれた。そしてその背信は御父様が聖和されることを意志された上で導いていかれた背信劇だった。裏切りの試練を通過された先生は、生きて悔い改めても、或いは死んで後に協助する場合でも、どちらであってもアベルUNと統一教会要素とを融合される為に世界的に働かれるはずだ。背信摂理とならざるを得なかった責任は全祝福家庭にある。そしてそこに、私達は背信を際立たせる立場と行いを取るべきで、グループを擁護するような立場であっては、聖和を意志してまで演じた御父様の願いを受け止めることにはならないはずだ。

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