2013年7月9日火曜日

今日の想い 589

祈祷する内容があるから祈祷するのではなく、祈祷するから内容を与えられる。祈れないのではなく祈らないのであって、祈っても何も答えが届かないと思っているがそれは祈ったのではなく祈る真似をして見たにすぎない。祈祷は神霊への対話であり、対話する主体の神霊を見出す為に探し尋ねる意志が注ぎ込まれなければならない。祈祷とは探し尋ねる意志の投入とも言える。祈祷するから内容を与えられるように、話すから話す内容を与えられる。書くから書く内容を与えられる。話す内容があり、書く内容があるから話し書くのではなく、意志を投入することで与えられる。話すのも書くのも先ず意志の投入だ。踏み切らなければ何も起こらない。生活事態が祈りだと言える為には意志を注ぎ込む姿勢が常に要求され、探し尋ねる意志を注ぎ込む生活が常習化されると、それに応じて尋ねたものを与えられる生活になる。抱えきれない数多くの課題問題が犇(ひし)めいている。それらの一つ一つを解決しようと思って思考を巡らすのだろうけれども、一歩引いた位置で思考を巡らしても思考が地上的なものに留まる限りは堂々巡りで解決の糸口は見いだせない。それは探し尋ねる主体を地上に見出そうとしている。祈祷は神霊への対話であるから、探し尋ねる主体を地上に見出そうとはしていない。地上は結果世界であり、本来結果をどういじくっても変わり様が無く、結果は結果で受け入れるしかないが、原因世界に働きかけることで地上の事実は変わっていく。だから祈祷を欠かさないことだ。祈祷して神霊を受け取る器、内的凹を自分の中に準備することだ。

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