2013年7月2日火曜日

今日の想い 585

祝福を受ければ御父母様に接木されたのであって、原罪から既に切り離されている。祝福を受けても原罪は清算されていないと思うのは、堕落の位置の私であって、それは重生された本然の私とは関係が無い。地上に居れば時系列で物事を見て原因と結果も時系列で理解しようとする。しかし地上の次元を越えた位置では原因と結果は時系列にはならない。というか時空を超越した位置では過去も今であり未来も今だ。堕落した事実も今であり復帰した事実も今だ。そして私から堕落した事実の今を消し去るのが祝福だ。堕落と関係のない御父母様が、祝福を受けた私達の血統の根源であり、祝福を受けた、地上でいう先祖や後孫が、時系列を外すと御父母様を根源に持つ兄弟として存在している。私達は人間として一個の存在であるけれども、その前に神様という存在の細胞の一つ一つでもあるというのが兄弟関係の意味だ。そして神様を構成する私が先ずあって、それなくしては人間としての一個の私も否定される。要するにXの中にOは入ることが出来ず、Oの中にXはいくらでも入ることが出来るという御父様のみ言葉が当て嵌まる。祝福を受けるかどうかは私は神様を構成する私なのか、それともサタンを構成する(私という一個を先ず立てる)私なのかが決定される。祝福を受けても罪もあり堕落性も見られると言っても、それは神様の細胞の傷であってサタンを構成する細胞とは全く異なる。将来的に傷が癒える(堕落性が脱げる)ことは神様の細胞である以上約束されていて、それは絶対である神様であるから救いも絶対だという意味で約束されている。その神様の健康な細胞に確実になる未来が先ず定着して、未来からすれば現在という病んでいる過去を遡る形で癒える過程を生きている。地上では時系列で罪を清算し堕落性を脱いで健康体細胞になるという認識でしか捉えられないけれども、地上を超えた位置、時空の縛りを解かれた位置では私は既に健康体細胞の存在だ。未来の定着した神様にすれば私の今の蕩減生活は過去の事実を見ていることになる。時空を超えた霊界に行けば私は健康な神様の一細胞だ。肉体の細胞ではなくて、敢えて言うなら肉体の神様ならず心情の神様の一心情だ。祝福家庭は霊界に行けば天国圏内にあるのは確かだけれども、天国圏内の中でも天国的な位階と天国の底的な位階が生じてしまうだろう。地獄は愛を受けられないところだけれども、天国の底的な位階は有り余る愛は受けるけれども、精誠を供えることができなかったのにもかかわらず愛を受けるという、その沸き起こる申し訳なさの悔いで焼かれる地獄だと言えるだろう。御父母様は祝福に対しては全責任を取られる。祝福を自ら否定するのでなければ失敗は有り得ない。受けた祝福が救いの体を為していないから祝福の完成に向けて蕩減を払っていくのではなくて、祝福は完全であり、その祝福を受けたに相応しい自分になりたいという感謝から来る私の意志を差し出してこそ祝福に正しく対している。感謝の想いは私は救われているという位置で湧いてくるもので、もしその未来という理想の現実が確定されていなければ、感謝は只の慰めであって本当の感謝の想いは湧いてこない。口では感謝と言いながら実のところ疲れ切って恨みがましくさえ思っている。

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