2013年7月27日土曜日

今日の想い 599

心情は感情ではない。同じ情的様相ではあるけれども、感情は堕落的因縁からきているのに比べ、心情はその基を天に置く。神様の情的な部分がその出所であって、霊を心魂と混同できないように、心情も感情と混同してはならない。自分が堕落的因縁の表れであり、自己に執着し続ける、すなわち自己中心の位置でも感情は湧き続け、人間的様相として表出される。しかし心情は自分が堕落的因縁の表れのままでは受け取れない。自己に執着し続ける限りは心情は関与しない。堕落圏に身を置く人間の位置からするなら堕落圏を越える、すなわち闘わずしてはそのままで心情は受け取れない。心情は闘って勝ち取るものだ。内的霊的世界に於いて闘いもせず、心情という神様の情的な部分に接することはできない。心情は決して安楽な位置で受け取れるものではなく、身をそぎ骨を削りながら、自分との闘い、為に生きる闘い、愛する闘いでサタン圏の砦をひとつひとつ崩し、勝ち取り、そうして受け取っていくものが心情だ。私が感情的存在のままでは、どれほどみ言葉に接するとしてもみ言葉の本質的部分は目を通す端から素通りしてしまう。み言葉を霊的生命が息衝くものとして受け取る為には、心情を尋ねる姿勢、すなわち闘う姿勢でこそ霊的生命という本質に近付くのであり、それは自己否定、私と言う感情存在の否定なくしてはありえない。何度も自分自身に念を押し続ける。心情は感情ではない。感情として波打つものを生きていることの実感とするのではなく、心情として受け取るものこそ私を本質の生、真の生命に繋げてくれる。心情を受け取れば活きるのであり、感情が波打つ状態は霊的死の状態だ。

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