2013年7月17日水曜日

今日の想い 592

釣った魚に餌はやらない。その言葉から自己中心で無慈悲で愛のない態度を思い浮かべるが、一般的な意味での使い方はそうなのだろう。好きな相手を落とすまでは手を変え品を変え投入し続けて、それが結婚に漕ぎ着けると途端に手の平を返してしまうと言うことだろうか。それはもう離れることはないはずだと踏んでそうなのか、それとも一緒になってみて相手への関心を失い魅力を感じなくなったからそうなのか。おそらく手にした安心感から投入することも控えるから結局関心や魅力も失ってしまう。授受作用の観点からいうならそうだろう。釣った魚に関しては餌をやるどころか、釣った魚は食べて消化してしまう。御父様は釣りを重要視しておられたし、釣りの成果を復帰の成果として捉えておられた。御父様に取って釣りと摂理とは重要な関係にあったはずだ。教会では伝道を釣りに譬えられることもあったし、復帰された食口は釣りあげられた魚だ。教会をひねくれた目で見る者にとっては、教会と食口の関係こそ釣った魚に餌はやらないという状況そのものだと見るだろう。地上的にだけ見るならそれも当然だろう。献身とは身ぐるみ剥いで捧げ、身も捧げ、そして心魂も捧げる。形あるものないものに拘わらず地上的なものは全て捧げる。更に今に至っては御父母様や御家庭に対してイメージしていた聖なるもの、それは多分に自分勝手に描いたものも含まれてはいるが、それを否定されて尚捧げる私を要求される。教会への自分の信頼を裏切られるような事件や情報も氾濫していて、ああ結局私は騙されていたと結論づけてしまう。しかしそれはどこまでも地上的な事柄だ。み言葉をして霊界の知識はそれなりにあるとしても、しかしそれでも霊的無知を克服してはおらず、地上的には捧げることが霊的にはどういうことなのかがわかっていない。釣った魚は食べて消化される。消化されれば血となり肉となる。地上的には無残にも消し去られたように思えるが、霊的には血となり肉となって次元を上げて生きる。己が自己中心的存在であるから釣りあげられ、食べて消化されることが魚に取っては不幸に思える。私がより次元の高い精神存在の為に生きる存在であるという認識があれば、そんな私に消化される魚は幸福だと思える。私は神様に全てを捧げるなら、神様が残すことなく美味しく消化されるような、完全に消化されて新たな次元で生きることが私の願いだと思うべきだ。今の教会の現状をどう理解し、自分の中でどう消化すべきかを食口誰もが問われている。その理解や消化したものを今度は神様が消化される。美味しく消化されるのか、それとも不味くて吐き出されるのか、自己中心的な思考、感情、意志は、その在り様が堅過ぎて神様は消化できない。

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