2013年7月23日火曜日

人は妄想だと言っても、霊界はそのように動く。

先回霊感の話をしたが、霊感何々というものが将来的な経済活動の基になるという突拍子もない説をぶちまけた。実は清平摂理も、霊感何々がその原型にあると言ったら、私は批判の矢面にされるだろうか。祝福を通して原罪を消し去ると同じように、御父様から認知された商材を授かることを通して先祖の受けた恨み、与えた恨みを解いてもらう。霊感何々がそうであるように、清平摂理で先祖解怨献金、先祖祝福献金を差し出すことで先祖の恨みを解いてもらい祝福を受ける。同じことだ。何が同じかと言うと、祝福も霊感何々も、そして清平も、受け取るものを本当に受け取るのかどうかわからず、そこはどこまでも本人の信仰によるしかないということだ。兄弟の中には清平の霊界役事を信じない者も多くいるが、祝福も清平も同じように御父様が認知しておられ、そして祝福も清平と同じように本当のところどうなのかは本人の信仰次第だ。だから祝福は信じるけれども清平は信じないという兄弟の祝福と清平の違いをどう捉えているのかは私はよくわからない。いたって本人の好き嫌いの気分によるものでしかないように思える。信仰の正道を迷わず進む者は、今のように悪い噂もされ多くの兄弟が足が遠のく今でこそ清平参りをするはずだ。疑いを抱く者が多ければ多いほど、前と同じ清平参りをしたとしてもその行動で格段に信仰は立つからだ。霊界の注目度も格段にあがる。祝福はその前段階としてみ言葉を聞いて先ず論理的に祝福の価値を理解している。しかし清平摂理は思考に働きかける論理ではなく、太鼓が鳴り響きシャーマニズム的雰囲気に誘われ、特異気分を感情にもたらすものなので知的な者には受け付けない。だからどこまでも論理的に成り立つものしか受け付けないとなると御父様とのそれなりの距離を置き続けるのであり、全てを相続できる一体圏の境地に入ることは無く、父子一体の言葉ですら虚しく受け取っている。入り口がどうであれ祝福も清平も絶対信仰による以外はありえない。そして祝福が祝福としての価値を持つ為には受けた以降の歩みが重要であって、受けてしまえばそれで事足れりというものではない。同じように何代にも亘る先祖祝福も、受けた以降どう私という第一代を中心として先祖が関わりを持っていくかであり、先祖と共に地上でみ旨を歩む中で祝福を賜った歓びが時と共に次元を超える歓びになってこそ先祖祝福の価値は見出されていく。それは決して棚からぼた餅的な協助を待っている態度ではありえない。霊感の問題もその行動自体が問題視されているが、対象者が授かって以降どう関わりを持って繋いでいったかを問われているのであり、放置している以上一方的に救いへの道を断ってしまっている。それは讒訴されて当然のことだろう。御父様が言われたように、祝福を望む群れが列を為す状態を本当に見るようになれば、それはいくらでも祝福献金が教会に溢れるのであり、それに付随する経済効果は莫大であってそれは霊感経済と言っていいと思う。

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