2013年7月1日月曜日

今日の想い 584

自分の凹凸は絶対に神様のものであり、凹は神様に属しているのであって女性に属しておらず、凸も神様に属しているのであって男性に属していない(み言葉)。そうして女性の持つ神様に属している形状凹は神様の中にある性相凹の結果であり、男性の持つ神様に属している形状凸は神様の中にある性相凸の結果と見ることができる。それで男性として横的に形状凹を求めるのは縦的には神様の性相凹の結果と結び付く為であり、女性として横的に形状凸を求めるのは縦的には神様の性相凸の結果と結び付く為だ。男女一体になることで神霊的には男性は神様の性相凹を自身内に自覚し、女性は神様の性相凸を自身内に自覚する。男性は神霊的には凹の位置であり、女性は神霊的には凸の位置にある。もし形状凹凸の一体だけが御意(みこころ)であるなら絶対性ならずフリーセックスに向かうだろうし、それは絶対愛を否定しているのであり、性相凹凸の一体を無視している。絶対愛をして形状凹凸が一つになれば性相凹凸が一つになれる基ができ、その夫婦一体圏は神霊を受け取る。私達祝福家庭はそういう夫婦一体圏を為す為であり、形状凹凸の一体だけで感覚的歓びに留まるこの世の交わりとは次元の異なる一体圏であるべきとの自覚が必要だろう。それは宗教的であり神霊的であり、芸術的であって創造的でもある。感覚的歓びを求めるに留まるセックスは所詮堕落圏内に留まり、地上の重力から逃れることはできないが、祝福家庭に望まれる夫婦一体圏は感覚的歓びを超越して次元を駆け上り、その場は天の父母様が生きて創造活動される舞台になるはずだ。アダムからエバを取りだしたとき、形状凹とは逆に、エバは性相凸を自身内に自覚する位置にいた。過分な欲望でルーシェルに対し、ルーシェルを性相凸の位置で(ルーシェルの上に乗った位置で)受け入れてしまったのが霊的堕落であり、エバは神様の性相凸に変わってルーシェルの性相凸を迎え入れてしまった(これはあくまで私的仮定)。そうしてアダムエバ間の時ならぬ時の行為、肉的堕落がサタンの血統を確実なものにしてしまった。霊的堕落と肉的堕落の関係を原因と結果と見るのが一般的だと思うのだが、堕落論を読み解いても肉的堕落は犯した罪に対する不安から本来の関係を取り戻そうとして起こったのであって、それを原因と結果と見るにはどうも無理があるような気がする。そしてもし霊的堕落なしに、時ならぬときの行為があり得た場合、それは堕落とは言わないのかという問題もある。或いは霊的堕落の後、肉的関係を取り留めた場合(これに関しては御父様も触れられたことがある)はどうだったのか。ルーシェルという霊的存在と、アダムという人間存在を同じ次元で扱って、アダムと関係を持てば本然、ルーシェルと関係を持ったので堕落、というようなルーシェルかアダムかどっちを選ぶかという問題では明らかにないだろう。おそらくそれは地上的論理の限界で、霊的無知を克服する過程で理解していくのだろう。

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