2013年7月7日日曜日

心門

心門という言葉を御父様は使われる。祈祷生活を蔑ろにする者はこの心門がわからない。心門がわからないから祈祷の妙味がわからない。祈祷は長いほどいいというものでもなく、祈祷の姿勢や形を整えればいいというものでもない。どれほど長く祈ったとしても、祈祷を終えて顔を上げて、祈ったことを忘れたかのように内的に神様に尋ねる意志を投げ捨てて、外的な地上に埋没してしまえば祈祷した意味もなくなってしまう。祈祷しているつもり、信仰しているつもり、御父様を慕っているつもりでしかなく、それら全ては自分よがりの思い込みに過ぎない。そんな偽食口、ナルシスト、山羊族がどれだけいるだろうか。私達は心の貧しい者になるべきだ。それは感覚的気分的な満足を求めるのではなく、心情の在り様の貧しさを覚えて心情的に深い自分になりたい私を追求し、内的霊的な無知を克服したい私を追求していくことだ。自分の心門を見い出した者はそこから心情の湧きいずる泉を手に入れる。溢れる心情の湧き水を、欲しいだけ乾いた喉に汲み入れながら、聖霊に満たされていく。そんな体験をしたことがどれだけあるだろうか。汲めども尽きない心情が湧きいずると共に、叡智も意志も湧きいずる。しかしどれほど祈祷生活を重要視すれども、祈れども祈れども心門を見い出せない、或いは心門を見失うことがある。それは祈祷できる基台が崩れているときだ。傲慢な私が前面に出ているときは基台が崩れる。執着する私がのさばっているときは基台が崩れる。内面に向かう自分を見失うと基台が崩れる。そして、腹一杯食べたり感覚的私を満足させることに溺れると基台が崩れる。腹八分目では少し多いかも知れない。飯も歓びも腹七分がいい。三分は捧げたことになって天が働く基台ができるだろう。心門を捉えると生活が霊的になる。霊的感性が開いて生活の些細な出来事を通し霊的教えを受ける。外的生活の背後に流れる霊的なものを受け取る。そういった霊界生活圏に入っていくと夢ならぬ夢を見、霊界がイメージとなって直接に対峙する。先祖や聖賢聖者が現れて叡智を与える。

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