2013年7月11日木曜日

今日の想い 590

男性としての本性からくるものか天使長からきた堕落性によるものかは問わずに男性嗜好をみると、肉的感覚的には一つの陽性生殖器に一つの陰性生殖器というのに留まりたくない男性自身をみる。絶対の観点からは完全に否定されるものを、肯定しようとする肉的感覚的な男性嗜好が厳然としてあるということだ。しかし肉的感覚的なものに線を引かずにどこまでも従っていくと、その行き着く先は自己破壊であることを霊的精神的な私は感じ取る。感じ取るだけではなく真理のみ言葉で理解もしているから悟性として許さない。しかし肉的感覚的な存在でもある私は常にその声にならない衝動に抗わなければならない。主体であり主人の位置にあるのは肉的感覚的な私ではなく、霊的精神的な私だが、それがどれだけ揺るぎない主人の位置を確立していたとしても、しかし肉的感覚的な衝動が消え失せる訳ではないだろう。そうなると肉的感覚的なものが主人の位置を奪う可能性は永遠になくならないということだ。私達は堕落という事実を論理として理解しているだけではなく、肉的感覚的な衝動が働いている自分をして堕落を感覚的なものとして理解している。しかし同時に、肉的感覚的な欲求を満たす同じ形で繁殖がなされ、肉的感覚的な門を通して神様の血統が繋がれることもまた事実だ。同じ外的行動でありながら善果になるのか悪化になるのか分けられる。そしてそれは内的動機をして分けられるということだ。まさに善悪知るの木だ。女性の生殖器を通して善悪を知る。女性の体門を通して善悪を知る木に至る。内的動機に神様がおられ、サタンもいる。私のこの動機がまさしく神様とサタンの戦いの合戦場だ。動機がうごめく世界こそが私達が見失ってはならない本戦場だ。動機が何かを蔑ろにする者は、どれほど信仰生活を重ねたとしても、神様を蔑ろにし、霊界の事実を無視する者だ。勿論堕落の本質も掴めない。男性として様々な女性を求め、凹を求める自分、それに翻弄されることだけに意識が向いてしまうと、意外と落とし穴にはまり易くなる。綺麗な女性がいれば振り向きもする。ついついアダルトなサイトを覗いて見たくもなる。他の食口には言えないような想像もするだろうし、誘いがかけられれば一発百中で落されるかも知れない。しかし弱みであるそこに釘付けされたままでは動機に蠢くサタンを見据えてはいない。振り向くなら統一式に振り向けというみ言葉があった。また、他の異性と踊るなら相対の為になるようにというようなみ言葉もどこかにあったはずだ。妻や夫への貞操の線をどこに引くとしても、動機を正すことが善悪の分かれ目だ。そしてその線を越えて負債を覚えるとしても動機を正すことは常にできる。動機に働こうとされる神様がおられるからだ。どうして堕落したか。愛ゆえに堕落し、動機への自由をして堕落した。そうして復帰は、愛をして復帰され動機への自由ゆえに復帰される。男性であれ女性であれ、誰とでも愛の関係を持てるというのも、やはり愛の質が問われ動機への自由が問われるからだ。

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