2013年7月21日日曜日

今日の想い 596

どうして私の感情はこの胸の内に留まったままなのだろう。憤慨する感情も胸の内に留まっているけれども、感謝の想いもこの胸の内に留まったままでいる。この肉を溶かし皮膚を蹴破り、この感謝の想いを地上にも広げ、そして宇宙の果てにも届けられるほどに爆発すればいいのに、そう思っても、私の感情はこじんまりと胸の内に落ち着いて、決して沸点を越えて気化するほどの熱量になることはない。私の心魂の活動のひとつである感情が私の内側に留まる限りは、堕落の大気圏を越えて、神様の主管圏、真の愛の主管圏には至れない。この肉が、この皮膚が、崩すことが出来ない私の壁だ。感覚を通して外の景色を取り入れてはいるけれど、決して本質をこの壁が通すことはない。ありとあらゆる自己中心的概念で築き上げられたこの不落の壁。私のこの壁が、私のこの概念が恩讐だ。本質を見たいのに死の輪郭しか受け取れず、本質を聴きたいのに平面的に写された波動しか受け取れない。死の影を背負ったものばかりを取り込んで、天に昇華するものは反射して排除しているに違いない。おそらく感謝が軽すぎるのだろう。或いは感謝そのものが畏敬の念を備えた天に対する感謝とは別物なのだろう。感謝に霊的実質が備わっていない。それは私の置かれた環境が、まだまだ生ぬるいもので、地上的堕落的な在り様に安寧としていることを意味している。楽して神様にお会いし、楽して心情を取り込もうとしている。それは神様に会おうとしているのでもなく、心情を相続しようともしていない。神様ではなくこの世の神に会おうとし、心情ではなく或る堕落的感情に酔いしれたいだけだ。私は未だに堕落圏の中に留まり続ける。堕落圏に留まり続けることを敢えて欲している自分を否定できない。やがて熱くなり煮え滾って罪に苛まされるはずのこの堕落的ぬるま湯から、今の私は飛び出そうとはしない。それが私が正視しなければならない私の姿だ。それが私の罪そのものだ。

0 件のコメント: