2013年11月29日金曜日

今日の想い 667

いつもの感謝祭なら、スーパーで小さめのターキーを選んで持ち帰り、妻がオーブンで料理する。小さなアパートだからにおいと共に煙の回りも早く、気を許せばアラームがけたたましく鳴り始める。そんなジタバタ騒ぎも、感謝祭を祝う毎年の恒例だったが、今年の感謝祭は白い部屋に妻は横たわり、その隣で彼女の様子とモニターの数値を交互に見ながら、感謝すべきこの日を送っている。ニューヨークで働いている息子も昼過ぎには帰ってきて、ピックアップしたその足でボルチモアの病院に向かった。勿論娘も同乗させ、久々に家族四人が集まったわけだが、横たわった彼女の周りを三人で囲むという、今までに経験したことのない感謝祭の顔合わせになってしまった。妻は虚ろな目で息子や娘を一通り見まわし、一言、力ない声をかけると、苦痛に歪んだ顔をベッドに埋めた。後は日が暮れるまで、無言の時間をひたすら共有しただけだった。6時を回ってしっかり日が暮れると、子供には家に帰るように伝えて、私だけ付き添いで残ることにした。子供を返したあと、妻の顔を見ながら、言い知れぬ寂しさが込み上げてきた。苦しんでいる彼女に代わってやることもできなければ何もしてやれない。妻を私が見捨てたようで、私は護って戴いている天使や聖霊から見捨てられたようで、悲しく寂しかった。彼女は苦痛と息苦しさで寝付けなかったが、直ぐに覚めるであろう浅い眠りに着いたその隙に、パソコンを取り出してキイを叩くことで何とか自分を落ち着かせようとした。妻に不安な表情は見せたくなかった。でも文字を並べていくと、抑えきれない感情が溢れだして、流れるものをどうしても禁じ得ない。それでも感情を涙に代えることで、幾分落ち着くことができた。その僅かな事でも感謝できれば、それはそれで私の感謝祭だ。妻に代わって、そして目を覆いたい母の状態を目の当たりにしさぞ落ち込んだであろう息子と娘に代わって、家族の感謝祭を私の涙で供えることができた。

今日の想い 666 ( 地球という胎 )

現代人は地球の存在を認識している。それは当然であるけれども、古代人にとっては現代人のように球形をした輪郭を持った地球というイメージはない。科学的イメージを持たない古代人だったけれども地球という霊的なイメージは持っていた。そしてその認識の方がより包括的だった。全ての自然現象に生きた霊の感情を、思考を、意志を見た。生きて働く霊の存在は古代人にとって疑いようのない当然の事実だった。彼らは科学的唯物的な現代人の捉え方とは全く異なる地球に対する認識を持っていたはずだ。以前地球は天宙の胎であると記したことがあるが、古代人にとってはそれも当然の認識だったはずだ。人間は夜の無意識と昼の意識を交互に体験しているけれども、地球自体は西半球が夜なら東半球は昼であって、夜と昼を同時に体験している。普通人間は冬と夏を交互に体験しているけれども、地球は北半球が冬なら南半球は夏で、冬と夏、さらには春夏秋冬を同時的に体験している。神様は性相と形状の中和的存在であり、陽性と陰性の中和的存在であられるけれども、地球は夜昼の同時的存在であり、冬と夏の同時的存在でもある。夜昼は東西と関係し、冬夏は南北と関係している。天宙は神様の体、形状であり、地球は神様の胎であれば、胎の中に東西があり南北があるという東西南北の四方性があるのは、この四方性が霊界の四方性、四大心情圏を育てる胎盤の役目を果たしている。地球の四方性、東西に夫婦関係の胎盤的なもの、南北に親子関係の胎盤的なもの、として、肉体的には東西南北という平面的四方性で生活しながら、内的には、さらには霊的には、四大心情圏への横的関係、縦的関係の基となっている。地球に対する現代人の認識が、球形であり自転もし太陽の周りを公転もしているという科学的認識があるなら、さらに球形であることの意味、自転することの意味、公転すること等の意味を深く掘り下げると共に、意味を問う私自体が地球に所属し、地球に拠らなければ存在できない等という意味までも問うていくと、或る時点でどうしても科学的なものを超える地球の認識を得る必要性が起こってくる。ギリシャ神話によれば地球はガイアという女性神だ。古代を遥かに遡る人類の原初は、胎盤に繋がった胎児のように原初地球に繋がった原初人間を霊視することができる。それからも地球が天宙の胎であることが理解できる。原初人間は植物のように地球に繋がり根を張っていた時期がある。地球との直接的繋がりを持たずに独立し自由な人間存在になってからも、内的霊的な意味で地球は人間が成長する為の胎内に変わりない。サタンによって侵害された天宙の胎を取り戻し、神様の結婚式をして差し上げて、地球は今神様によって身ごもる者達の胎として存在している。

2013年11月27日水曜日

今日の想い 665

再度切り裂いた腹の痛みだけに留まらず、胃の激しい痛みまでも併発した。耐えられない傷口と胃の激痛を外に押しやらんとばかりに吐いて、さらに吐いて、を繰り返す。胃の中には何も入ってはいないはずだが、血液に注入される点滴液を逆に胃の中に染み出させて嘔吐しているらしい。手術を終えて丸三日、その状態が続いた。甘受できる状態はとっくに越えていて、生きてのた打ち回る地獄を彷徨っていた。唇が痙攣で震えている。浮腫んだ瞼は閉じられることはなく、半開きの淀んだ目であったり、かと思うと急に見開いて視線を空に泳がしたり、明らかに異常な状態だった。震える口で何かいいたそうだと思って耳を近付けると、「外を歩いて来たから熱い。早く家に入らないと。」と微かな声で呟いた。混乱していた。さらに今まで傍で付き添っていたにもかかわらず、いつ来てくれたのと光の欠けた視線を私に投げかける。私は私で、彼女の地獄とは違う地獄に突き落とされてしまった。一瞬途方に暮れた。僅かの光も消え失せた。激痛から逃れる為に心魂を肉体から遠ざけ、夢うつつの出来事と現実の区別をなくしている。寄せ来る幻覚が現実空間の中に広がっている。私は、それまで一瞬だに離れなかった妻のベッドから離れて、その集中治療室の窓際まで足を運んで背を向けた。背後では時折笑い声さえも起こるナース達の快活な会話が弾んでいた。隠しはしたものの目から溢れて流れ出たものが外の光を受けて反射し、自分で眩しいと思った。嘔吐が止まらないのでナースはチューブを持ち出し、鼻から進入させると私に言う。感情に沈んでも時間を止められるわけも無く、次から次へと対応が要求されて否が応でも前に前に進ませられる。妻としては以前経験済みだが、それも撥ね付ける不快なものとしてだが、それでもナースの威圧に負けたのか今回は仰け反りはしなかった。それでもチューブが太すぎたらしく、顔をしかめて苦しい声を発した。ナースも状況が直ぐにわかったのか、細いものを探しに部屋を出た。妻は残っている今一人のナースに、せっかく買ってきてもらって申し訳ないけれど私には合わないです。と随分丁寧な日本語で、さらに愛想笑いまで添えて詫びた。いつもの彼女であれば不快な表情を隠そうともせず、睨み付けんばかりに言葉を返すはずが、混乱しているせいか、もちろん正常なら日本語で相手に話すわけないのだが、それでも随分謙虚で、妻なりのいっぱいの申し訳なさで恐縮している態度に、それまでの私の言い知れぬ気持ちはいくらか癒された。もしこのまま正常を取り戻さなかったとしても、二人は十分やっていけるとそのとき確かに思えた。二人でひとつであるところの私の片割れが妻だという、その感慨が急に溢れ出して涙は別のものに昇華した。

2013年11月25日月曜日

事実に躓くのではなく、事実に問おうとすべきだ。

御父様の行動を堕落的な目で見てああだこうだと言い募る。御父様の価値が量れるというなら、その持ち合わせている価値判断はどこから来たのか。自分の持ち合わせている価値判断が正しいと言うなら、自分を堕落した霊的無知な存在とは認めていないことになる。堕落的な目で見て御父様の行動がどれほど奇異に映り、罪の権化のように映ったとしても、そこには確実に、真実の目で見れば見えるはずの犠牲的精神が生きているはずが、それが見えない。見ようとしない。この地上に、とりわけ人間の行動形態すべてに堕落的要素は染み込んでいる。それは善なるもの、聖なるものだと思われる行動であっても、しかしそれでも堕落的要素は染み込んでいる。人間のあらゆる行動形態、特に罪や悪が絡む欲望という行動形態の類を、どのようにして聖なるもの、善なるものが浸透している行動形態に変えることができるだろうか。性行為を行わずに、手を繋いで深く見つめ合うだけで一体化し、愛の結晶を創造できるなら、それこそが再臨のメシヤとして地上にもたらす仕事だろうか。そうでないことは誰もが解かっているのに、愛の行為という堕落的要素が染み込んだ行動様式を、そのまま何もせずに聖なるもの、善なるものに変えてくれと要求している。メシヤとしてメシヤらしき宣言をすれば、その宣言にメシヤ本人も従うだけでもって事足りると思い込んでいる。声を大にして言うなら憚られるであろう御父様の取られた行動は、敢えて言えば霊的科学反応実験だと言える。血統転換式を導き出すのに、そして絶対性、絶対セックスという概念を導き出すのに、肉体を持たれた地上存在として、身震いしながら罪と悪にその嫌がる肉体を染めながらも創造された、奇跡的と言っても過言ではない救いの方程式を導き出された。よだれを垂らしながら放蕩三昧する堕落人間的行為と所詮同じだと誰かが言うにしても、霊的に見れば全く正反対の犠牲的精神がその行為に生きている。少しでも霊的見地に立てば、明らかに放蕩三昧とは異なることがわかるのに、地上感覚しか持たない、霊的無知を自認しない者達は、御父様の肉的行為そのままをああだこうだと論(あげつら)う。肉体をして導き出さなければならないからこそ、肉体を持たれて地上に再臨されたのであって、救いの完成に肉体による秘儀が必要ないなら肉体をもって再臨される必要はない。

2013年11月21日木曜日

昼と夜

私達が昼夜と言う場合、昼の意識(目覚めている意識)で夜を眺める、すなわち夜の一面だけを捉えて夜の概念を得ている。交互にやってくると思っている昼と夜の関係の夜は、昼夜を平面的認識に無理矢理押し込んだ夜の概念と言えるだろう。夜があって昼があるのであり、夜の中から昼が生まれるのであり、昼から夜になるのではなく昼から夜に移行するときの昼は砕け散る。どれほど太陽と地球の関係で説明する昼夜を絶対視したところで、そこから本当の昼の概念、本当の夜の概念は導き出せない。ちょうど、この外界宇宙を創造した創造主としての創造神を神の概念として捉えても、人格神、親としての神様、心情の神様の概念を導き出せないのと同じことだ。創造神は神様の一面であって一面だけで捉えると神様の認識は間違ったものとなる。昼の意識で捉える夜も夜の一面であって一面だけで捉えると夜の認識は間違ったものとなる。ここで言わんとするところの夜の概念が捉えられないと霊界がわからない。地上界から探り見ようとする霊界は霊界の一面であり霊界の本当の認識には程遠い。サタンに見事なまでに洗脳されてしまった物質中心主義、唯物主義の堕落人間は、それを否定する宗教人までもがやはり唯物主義的な発想や思考を宗教に持ち込み毒されている。賢さの点では真にサタンアッパレと言ったところだ。私達は今、昼の意識から夜の意識への目覚めが大潮の時を迎えるように為されつつある。霊への目覚め、霊界認識への目覚めだ。その目覚めが為されるにつれ、夜の神様、昼の神様の意味もわかるようになり、認識も持てるようになるはずだ。唯物的思考に毒された現代人のままで夜昼の神様を解くことはできない。創造主という神様の一面だけの捉え方が、私の主体である内的霊的なものへの影響が及ばないように、昼の意識から捉える夜という夜の一面だけの捉え方では、昼を生み出す、すなわち実体圏を生み出す夜という、夜の本質を捉えられないし夜の深淵を見ることも無い。実体圏創造の為のあらゆる素材が夜の深淵の底に眠ったままでいる。

2013年11月19日火曜日

今日の想い 664 (トラかチキンか)

私の中には、未だ堕落の因縁を持つ性質、堕落性が潜んでいる。この堕落性が見分けやすく分別し易いなら問題はないのだが、創造本性に絡みつき染みついているから分別が難しい。人生に困難は付きもので、手を代え品を代えありとあらゆる困難、想像もしなかった困難が襲ってくる。困難に対する時は決戦場に立っているのであり、何と何の決戦かというと自分の中の神とサタンの決戦だ。普通は困難そのものがサタンだと思って困難を排除しようとする訳だけれども、困難を先ず試練として受け止めなければ、逃げてばかりいるなら自分の中のサタンを成敗することはできない。試練として受け止めるとは試練に身を晒す、先ず打たれることをよしとする出陣する自分を差出すことだ。打たれてこそ神とサタンに分別されるのであり、打たれることで思いもしなかった力が、知恵が、勇気が、私の中に湧き起こる。過去に国家間の戦争が起こり、人々は否が応でも生命の危険に晒された。その状況で何を学ぶかと言うと、どうせ生命の危険に晒されるなら戦いに臆病になってチキンで死に臨むのではなく、戦う意志を持ちトラで死に臨もうとする。戦時の状況で先ず彼らの中の内面の戦いが起こるのであり、その内的戦いでチキンかトラかの決着をつける。少なくとも私達の周辺には戦争のない平和な時代が流れていて、そこに安堵の気分を覚えるのだろうが、兵士達にはその内的な善の基準は問えないにしてもひとつの内的戦いに勝利した、敢えて言えば国の民族霊という神柱が立ち民族魂を受け取る歓びで満たされていた。どんな国であれ、それがサタン国家であっても、国の為に生命を捧げた英霊には敬意を表すべきであり、事実彼らの霊は高い位階にある。私達が生きて英霊の基準を越え、彼らの協助を得る為には彼らの内的戦い以上の内的戦いを甘んじて受ける私にならなければならない。どんな困難、戦いにも率先して私自身を差出すべきだ。そしてどんな表面的な困難、どんな現実の戦いも私の内なる戦いと直結している。そして内なる戦いに勝利することでこそ堕落性を解消できる。恐れ、慄(おのの)きの中にびっしりと堕落性が詰まっている。

2013年11月18日月曜日

今日の想い 663

御母様の命を受けられた金栄輝先生のアメリカ5都市巡回、その最後のワシントン地域での講話に参加してきた。金栄輝先生らしいという印象で、終始穏やかな様子で御話を進めておられた。再臨のメシヤであられる御父様の路程を初臨のイエス様の路程との対象比較で説明されながら、様々な問題で混乱しているであろうアメリカ食口に先ず御父様が再臨主であられることを明確に確認させて揺れる思いを正して下さった。アメリカはキリスト教国家であり、食口の殆どはクリスチャンの背景が思考感情意志の根底にあるので、その確認は大切だろう。その上で霊界の認識に疎い彼らに、清平の摂理の意義や大切さを解かり易く受け入れやすい言葉と内容で話され、清平に対する様々な疑心を払拭された。一時の感情の高揚を無理に高めるものでもなく、摂理の深く難しい内容を理解できない言葉で説明されるのでもなく、内的な基本姿勢がどうあるべきかに光を当てられて、個々の感想はそれぞれあるだろうけれどもアメリカ全体に取っては実に恩恵深いものがあると思った。或る面、御母様を迎えて一瞬盛り上がるより、御母様は知的な先生を送られることで、アメリカ全体としては質素ではあるけれども基本姿勢に今一度光を当てられて前進することができるようされたのではないだろうか。アメリカ食口は、韓国への距離的なものもあって清平詣でに二の足を踏む者も多く、霊界認識の少ない内的距離的なものから先祖解怨も祝福も少ない。クリスチャンの霊界の階層は他の宗教よりは高い位置にあるけれども、しかしクリスチャン意識に囚われ固執してしまうと、御父様が霊界に於いて全ての垣根を取り払われたにも拘らず家の壁を厚く強固にしてしまって、先の者が後になり、後の者が先になるという聖書の言葉を自らの在り様で証明してしまう。今回先生の言葉を良く受け入れて、先祖解放と祝福に意識を大きく持って欲しい。ひとつ苦言を言うなら、それは礼拝でいつも思うことなのだが、バンドがうるさい。うるさいだけのバンドは廃止すべきだ。聖霊、神霊を迎える為に音楽は大きな役割を果たすものであることはわかっているけれども、目立つ雛壇に立つことで主体に踊り出て、ビートを始終効かせてうるさいだけの音楽なら、御父様を迎える雰囲気、み言葉を受け入れる雰囲気を壊して台無しにしている。それがどうして解からないのか、霊的に鈍すぎるのか、あのバンドの無配慮な雑音の鞭を受けなければならないと思うだけで礼拝に行くのに大きな覚悟が必要になる。せめて雛壇を降りて片隅で演奏すべきだし、できるならビートを外して弦楽器を基本にすべきだ。

2013年11月17日日曜日

今日の想い 662 (20数としての人間存在)

「天地の度数を見ると、鉱物時代、それから植物時代、それから動物時代、それから人間時代、それから神様です。5数なのです。5数を中心としてこの4数です。四肢を通じた20数が私たち人間の20数です。男性、女性を合わせることによって40数です。40数を中心として定着するのです。」
鉱物は元素、植物は生命、動物は心魂、人間は自我(霊)の存在であり、人間は元素も生命も心魂も備わって更に自我(霊)の存在だ。本来、人間の四肢は霊的活動と直結しており即ち霊的四方(東西南北)と直結している。人間は立って歩く存在でありよって四肢は平面に固定されない立体的だが、動物は直立存在ではなく平面存在であって四肢は平面に固定されている。人間の心魂は霊に及ぶ活動となるが、動物の心魂は霊に及ぶのではなく生命活動としての本能的なものに留まっている。御父様が東西南北という話をされる場合、霊的な方位でありそれは心情によって開かれる方位だと言える。霊的方位、東西南北は四大心情圏のことであり心情世界の広がりが霊界の広がりを意味している。霊的活動と直結している人間の四肢は何が指示命令を与えるのか、どう働かせるのかによって人間がどの次元で生きるのかを決定している。5×4で20数ということは元素の次元で働かせる四肢があり、生命の次元で働かせる四肢があり、心魂の次元で働かせる四肢があり、霊の次元で働かせる四肢があり、そして神様の次元で働かせる四肢がある。「4×4は16と東西南北の4を足せば20です。20個なのです。手足を合わせれば20個です。」とあるが、人間が四大心情圏を自由に往来する四肢を持ち合わせているかというと、確かに父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛のそれぞれの概念は持ち合わせているけれども、その概念が普遍的な四大心情までには至っていない。よって16数存在ではあっても東西南北の4数が未だ欠けている。数理を言うならこの4数復帰であり、霊が神霊に及んで神様の四肢を取り戻す為の心情復帰に心血をそそいで来たのが私達の歩みだったとも言える。

2013年11月15日金曜日

今日の想い 661

いつの時代もカインとアベルに分けられて復帰摂理は進められてきた。復帰で分けられたカインアベルは善と悪だけれども、復帰という再創造が為されて進化への更なる創造が始まれば、善と悪ではなく、明と暗に分けられて創造が為されていく。堕落する以前の創造過程に於いて全てが善であったように、それは光が善、生じる影が悪とは言えないからだ。栄光を受け取る者には形のない未来を形にしていく開拓を引き受ける責任があるだろうし、栄光の陰に愛の減少感を受け取る者には過去の犠牲によって培われた地上の成果に保護される恩恵がある。カインはアベルを殺してしまい、アベルが引き受けるはずであった人類救済摂理を崩してしまったが、神様はカインを完全否定するのではなく、保護されることを約束された。私達には家庭の理想があり、国家の理想、世界の理想もあるけれども、理想を形にする為には、理想イメージという張りぼてを尽く否定され壊されながらも、それでも理想追求に心魂を捧げることで本当の理想になり本当の形になっていく。祝福家庭としてのイメージがあり祝福子女としてのイメージがあるけれども、そのイメージが天の理想そのものではなくて理想イメージに過ぎないと思うべきだ。だから壊されて当たり前で壊されてからが本当の理想追求の道だろう。祝福を受けて理想家庭だと思い込みながらも、夫婦間の葛藤、生活困窮や親兄弟とのわだかまり、子供が祝福を素直に受けない、等々あらゆる問題があって理想のイメージは壊されていく。それは私達下々の者だけではなく、勝利された真の家庭を見ても様々な理想のイメージは壊されていく。しかしそれはイメージだ。現実というイメージであって現実によって本当の理想が壊されるならそれこそサタンの思う壺だろう。理想を形にすべきだけれども、私達の理想イメージに過ぎない張りぼてを本当の理想だと追い求めても意味がない。私達が本当の理想だと思っていたものは、実は堕落の私が発想する理想イメージに過ぎないと言えるものが多々ある。だからと言って全てが偽りで、全て投げ出してしまえばいいというようなものでもない。御父様の理想を完全に理解して、それから形にしていくものではなく、現実に生きながら、そして現実の中から本当の理想を探し求めていく姿勢が、内的霊的なものを主体にし、さらに内的霊的な中心に御父様が立っておられると言える歩みだろう。現実から本当の理想を探し当て、本当の理想を形にしていく過程で、どれ程の叡智が私の中に投入されるだろうか。生きた神霊の叡智が私を通して働くだろうか。

2013年11月14日木曜日

今日の想い 660

ノアが生きた時代も終末だった。イエス様が地上に降臨された時代も終末だった。そして御父様が再臨のメシヤとして活動された今の時代も終末だ。現在形にしたけれども未だ終末時代かも知れないし終末を越えているかも知れない。しかし御父様が既に聖和されたのだから、あるいは勝利されたのだから、あるいは善悪交差点は過ぎたのだから、終末は越えたと言えるのではないだろうか。ノアの終末の時も、イエス様の終末の時も、終末を越えて地上がどうなり、社会がどうなり、私がどうなるかなどわかりはしなかっただろう。私達も地上天国が到来したらこうなるとかああなるとか、様々にイメージを膨らましていたけれども、結局はそんな想像は当たらず、どうなるかなど理解してはいなかった。クリスチャン達が言うように、主イエス様に捧げた者だけが救われて天上へと上がり、黙示録の天変地異によって他の者は滅びてしまう、などと言うことなど無いことはわかっていた。しかし具体的にどうなるかなど誰もわからない。終末を越えてどうなるかなどという心配は地上的な心配であって、地上的な心配に意識が捕らわれている限りますます霊的なものはわからなくなり、終末と言う霊的転換点を見ることはできないだろうし、迎えて越えることはできない。み言葉を受け入れた私達でありながらも、以外とこの世の者達と同じように、近い将来のことを心配し、生活の確保を第一に考えている。実体み言の御父様が生きて私に働いておられるとの実感を得るためには、地上の輪郭を持つ御父様から、霊的な、霊的感性で触れることのできる御父様を私の中に迎えなければならない。私達は信仰の形にとらわれている。これはしてはいけない、あれはしてはいけない、こうすべきだ、ああすべきだ、形にとらわれてその形に嵌らないことを不信仰といい、形に嵌っていれば信仰を保っているようで安堵する。形は形で大切だけれども、形に執着するとそれはもはや愛を第一にしているのではなく条件を第一にしている。子供が祝福を受けないといって悩むのは、愛する立場で悩むのか条件に引っかかることで悩むのか。形や条件が最も権威があり、形や条件で神様を納得させることができるのなら、自由こそが私達の敵だと言うことになる。誰もが一挙手一投足を完全主管される牢獄が天国だということになる。祝福家庭や祝福子女としての形や条件に引っかかり思い悩みながらも、しかしそれを愛で乗り越えようとするときに、私達は善悪交差点を越えて愛の勝利に向かう、私と言う基点で終末を越えて解放時代へと次元を上げていく私になれる。

2013年11月10日日曜日

今日の想い 659

絶対信仰が備わっていると断言できる食口はいるだろうか。御父母様に対して絶対服従を捧げていると断言できる食口はいるだろうか。絶対愛で私達に対して下さったように絶対愛で一人にでも対している食口はいるだろうか。そうなっていない自分を一方では認めながら、一方ではこの世に対する時に、信仰がある自分、御父様に捧げた自分、愛のある自分とみなし、この世の信仰のない人、自己中心的な人、愛のない人と括ってはいないだろうか。氏族に対するにしろ伝道にしろ、自分には何もない、信仰も愛もない自分だから、貴方が御父様を知って信仰も愛も立てて欲しいとお願いする謙虚さが見えない。実際私達は摂理を担い御父母様の願いに応えるべく歩んできた。歩んできたつもりだった。しかし現状の惨憺たる状態で何の誇るものがあるだろうか。失敗した私達、特に一世は誇って伝道できる何物もなく、失敗した私達に代わって摂理を担当してくれる人を探す、その為に伝道すべきだといってもいいかも知れない。個人の救いに汲々とするばかりで全体の救いの為に身を挺する者が余りにも少なく、結局個人の救いも自己中心的な救いの観念に没している。そうであれば、祝福も、教会員としての自覚も、全て一度返上すべきだろう。戴いた祝福に拘り、名ばかりの教会員で、一体全体に対する何の得があるのだろうか。御母様も特に二世に対して意識をもっておられる。一世が既に年老いているということもあるだろうけれども、失敗し続けた一世に更に摂理を託すのは難しいとの判断があるはずだ。勿論一世に対して何もするなとは言われないだろうけれども、期待はしておられない。本当の意味もわからずに戴いた祝福を、有り難く抱き抱えながら、しかし抱えたままで死んでいく。祝福は祝福としての芽を出し、成長し、花を咲かせて実を実らせてこそ祝福だろう。戴いた祝福を種のまま抱えたままで、それで天国に直行できるわけではない。真珠をもらった豚にすぎないなら、真珠の価値がわかる者に投げ出すことが豚にできる唯一のことだ。祝福を戴いたことの恐ろしさを遠からず悟ることになる。霊界に足を踏み入れれば自ずとそうなる。

2013年11月8日金曜日

今日の想い 658

突然だけれども、姉妹たちは恋したことがあるだろうか。狂おしいほどの恋慕に身を焼き焦がしたことがあるだろうか。恋することで、見るもの聞くもの触れるもの全てが、血沸き肉躍るほどの高揚感に酔うそんな感情を生きたことがあるだろうか。或いは叶わぬ想いに身を削り、些細な喜びも楽しみも平安も感じられないほど魂を丸ごと抜き取られ、埋まらない寂寥感を抱えたことがあるだろうか。私達にとって恋愛はもちろん御法度だ。「みんな手紙の一つでも出したことがあるだろう。御父様は気持ち悪いや。」と、耳を傾ける姉妹達を眺めながら仰ったことがあるけれども、それが恋愛感情そのものが悪いと言っておられるのか、慕う相手が間違っているだろうと言っておられるのか、どちらだろうか。私は後者だと思っていて、想いを寄せる相手が正しいなら身を焼き焦がすほどの感情を味わうべきだと思っている。想いを寄せる正しい相手とは姉妹達にとっては御父様だ。姉妹達は夫の天使長の位置での蕩減期間を経て、夫に向かう想いもあるけれども、基本御父様へ向かうべきだ。この道は姉妹達にとっては御父様をどこまでも慕う恋の道でもあり、兄弟達にとっては御父様にどこまでも忠誠を誓う極道の道でもある。一世にとっては特にそうだ。この世の人々に、人生の最も色溢れて高揚する場面はと聞いたなら、青春時代の恋が芽生え恋に生きる場面を思い浮かべるだろう。その、この世の感情の高揚を凌駕する、心情に通じるほどの生を食口達は生きるべきだろう。しかし全てを否定して御父様を通過しなければならない復帰されるべき私達とは異なり、子女様の歩みはそれとは異なる歩みであって、私達の基準で測れないものがある。もし忠孝烈の烈の魂、春香の哀切な愛と志躁が女性の中で燃えるなら、その女性が、忠誠を立てる自分、孝行を立てる自分をも説得して烈の魂に殉ずる自分を生きるとして、それはそれで真の愛に生きる意志を差出したとは言えないだろうか。

2013年11月7日木曜日

今日の想い 657

妻も私も同じ日本人だし、同じ広島県人だし、周りから見れば似た者夫婦なのかも知れない。見えない習性や習慣的な発想は同じ環境で生活しているわけだから同じだとは思う。しかし習性という表面を剥がし、心魂の深みへと向かうにつれて違いは大きくなり、お互いの間の内的霊的距離が増し遠くに霞んで見えるような存在感になることがある。妻にはいつも、外的に捉えることだけに専念し過ぎていると口を酸っぱくして言っているのだが、彼女は私の言わんとすることがわからない。外的なことを説明するのは簡単だけれども、内的霊的なことを外的な言葉で説明しようとすれば難しく、私のそのうまく表現できない歯がゆさが、彼女にとっては自分が責められ否定されているように思われるらしく、次第に表情は厳しくなり聞く耳持たずになってしまう。妻との距離を、み言葉理解の違いによるものなのか、信仰観の違いによるものなのか、内外の育った環境の違いによるものか、それともただ男と女の違いによるものなのか、おそらく全ての要因がお互いの間の溝を作り距離を隔てているのだろう。誤解されてはこまるが、夫婦円満だしお互いがいつも一緒にいたいと思っている。しかしそれと霊的な事柄とは別問題で、霊界に二人して赴いたとき二人で一つという霊の一致、霊の合一が為せるのかと問われると私は疑問がある。妻はこの世で一緒だという感覚もあの世で一緒だという感覚も同じものだと思っていて、そこに問いを投げかける私に不信感を持っているが、私にすれば彼女は事物を外的な事としてしか捉えていない。物も事物も現象も、環境も経験も記憶も、それを霊的に捉えることに意志を投入していない。霊的に見て聞いて捉えることを学ばなければ霊の認識は下りない。霊の認識が下りないのに一つの片割れである霊的な夫、今一つの片割れである霊的な自分、そしてそれが合わさる霊の合一という認識も捉えられない。夫婦仲良く睦まじく、それがそのまま霊界でも夫婦一体となると思っているが、この世にも仲良く一生を添い遂げる夫婦は山ほどいる。しかし霊界に赴くとそれぞれ別の霊界に住んでいる。それはお互いが一つになろうとするその中心点が、心魂の表面的なものに留まり、心魂の深みの奥の霊的なものを中心としてはいなかったことによる。一緒にいる理由が、優しいからとか、感性が同じだからとか、安らぐとか、そんなものは霊的なものとは言えない。絵に描いたような円満な夫婦より、喧嘩や口論が耐えない、相手の醜いものしか見えない、そんな出発点の状態から次第次第にお互いが不可欠な存在になれるとしたら、それは本物に近い、すなわち霊の一致に近いものがその夫婦にはあると私は見る。或る子女様の再婚の話が話題に上るが、絶望的な夫婦状態から夫婦一体まで、もし辿ることができたなら、戦っている祝福家庭にとってどれほど希望的存在になられただろうか。そう思うのが一般的信仰であり普通の感情かも知れないが、次のように言ったとするとどうだろうか。絶対性に反するような行動をされながら、しかし実の娘であられ、御父様の血統圏にあることをサタンも誰も否定はしない。御父様は勝利されてサタンを屈服され、それは絶対的勝利圏であり、であれば血統圏にある、即ち御父様と一体圏にある娘の行動を条件に取ってサタンが讒訴することは在り得ない。讒訴するとすれば勝利された御父様であり、しかし御父様は勝利圏で抱擁する以外ない。実の娘だからだ。もし許しの道が開かれるなら、私達のうちの祝福がこわれた者も、そして再婚者も、許しの道が開かれる。その意味は天上地上だけではなく地下の救いの摂理をも子女様をして担われたことになる。それは正道に外れた者達の希望的存在になられることになる。聖人と殺人鬼も祝福された御父様だという意味を深く問うて見るべきだ。御母様はこの件に関して何も口を開かれていないので、先走ることで混乱の種になると非難されるかも知れないが、罪のないものが攻撃の石をぶつけるのならまだしも、蕩減も払わない罪人が、一方的に戴いた祝福でありながら祝福の基準をどうこう言う資格もないのに石を投げつけている者達がいる。その現状を見て言いたいことは、もし叡智が解決するものとして道を開かれるなら、そこに矛盾はないはずだ。間違いを犯した多くの祝福家庭は、救いの道が閉ざされたままだ。しかし彼らの救いの摂理を子女様をして差し出された、と言う言葉が言えるようになるなら大きな恩恵ではないだろうか。戦いの多い祝福カップルは、乗り越えてくれる期待を天から受けている。それだけ天の信頼がある。しかし乗り越えられなかったとして裁かれるなら、真の愛を疑わなければならないだろう。

2013年11月6日水曜日

今日の想い 656

中国系オーナーのレストラン進出への攻勢は激しく、迎え撃つ側としてはいつも苦戦を強いられてきた。日本食ブーム、特にすしブームに乗っかって手を広げたのは中国系が大多数であり、彼らの出店攻勢、安値戦略に喰われて日本人オーナーである本家本元は息絶え絶えだ。今アメリカのすしは日本食と言えるのかどうか非常に疑問だ。衛生管理から始まってシャリにしろネタにしろ形にしろ、すしとは名ばかりのものをすしとして売っている。しかしそんな心配やこだわりは彼らには全くなく、メニューを丸々コピーして支店ですと言ってのけるほど図太い神経で押しまくる。彼らの強みは勿論その神経の図太さにあるけれども、外的なことを言うなら底知れぬ人材リソースにある。人海戦術はここアメリカのレストランビジネスでも投入され、だからいくらでも出店できるし経営するにあたって従業員の差し替えも自由自在だ。ビザ問題をクリアしているとはとても思えないけれども、移民局が常に監視している訳でもなし、問題があれば問題があったで彼らは金で解決すると割り切っている。そんな彼らを相手にどう戦えるのだろうか。人材も資金も投入されて100軒近くまで出店したにもかかわらず、ここまで縮小せざるを得なかった最も表面的な原因は中国系の進出だ。勿論内的原因も外的原因も我々にあるが、彼らを見て再度原因を我々の中から暴きだし、そうしてこそ新たな攻勢を仕掛けることができる。彼らの土俵に乗っからない為には、彼らが真似のできないサービスクオリティーやマネージメントを追求することであり、残っている店はそれなりの成果を見たから残っているとも言えるが、全体の現実を見るなら成果があったとはとても言えないだろう。中国系オーナーは共産主義が反面教師的に働いて、自由への強い憧れ、夢の実現への強い衝動があって意欲的だが、逆に共産主義に反論を唱えてきた我々だけれども、不思議と兄弟達は、責任の伴う自由を敢えて避け、それなりに家庭を養えればそれでよし、心労を買ってまでして外的な夢を持とうとは思っていない。去勢された牛の如く目の輝きが失せていて、共産主義下での人間のように言われたことだけやるに留まる。富も名誉もあれば堕落しやすいという後ろ向き信仰が根強いのか、消えそうな生命力のままで地を這っている。そんな心魂状態でみ旨に燃えるだろうか。御父様を証しできるだろうか。食口達は素直で人がいい、それは見上げる尊敬の念の言葉ではなく、褒めるところがないから人はそう言うのであり、本人はそう思って満足しているだけのことだろう。素直で人が良いだけでは人も歴史も動かせない。私達の中に燃え上がるものを見ることができなければ、復帰の心情を抱いた神様は私達の中にはおられないということだ。どんどん進出してきた中国系オーナーはその内面に明らかに燃え上がるものを持っていて、それは神霊に通じるものとは異なる別の霊的存在がかかわってはいる。バアルの火であっても火は火であって燃え上がる。

2013年11月4日月曜日

今日の想い 655

レストランビジネスに長い間関わって言えることは、私達のビジネスコンセプトの中に人材のリソース、それは人材教育も含めてのことだけれども、どこからどう人材を集めるかの戦略がない。店に人材募集の張り紙を張って、月に一人たずねて来るか来ないかを当てにして、どうして店の成長、発展が望めるだろうか。他でもないレストランというサービスビジネスは人の力に拠るところが最も大きいビジネスだ。民族も習慣も考え方も人により違うこのアメリカで、張り紙一枚でその店に適う良き人材が確保できるなど思うべきではない。殆どは使いものにならなかったり、店にとってマイナスな存在であったりする。雇ってはみたものの、いざ働くとなるとうまくいかない。それでマネージャーが店にとって益にはならないと判断しても、辞めさせるにも相当の配慮が必要になってくる。店がうまくいかない原因は様々だが、マネージャーを始め人材の問題が最も大きなネックになっていることは経営者誰もが認めるところだろう。立地よりも業態業種よりも何よりも、人材リソース、人材教育の戦略が立たなかったら、どんなに立派なレストラン構想を描いたとしても絵に描いた餅だ。30年近くレストラン業に携わっていながら、いつもそこには触れず、こんな店がいい、あんな店がいいと、目に見えるレストランの形だけを漁っているが、結局は金をすって終りとなるのは目に見えていた。何とも浅い、ただの思いつきを、宝でも掘り起こしたかのように上部に進言する気が知れない。進言する方も進言する方だが、頷いて受けた方も受けた方だ。形ありきで追い続けた惨憺たる結果を今まで見てきながら、それでも自覚できない我々の組織の無関心、無感情、無責任さの三無状態をどこまで見続ければいいのだろうか。公金、あるいは公的と言う概念の捉え方から間違っている。私的なお金に対する公金であり、私的に対する公的だ。私的なものへの関心、感情、責任意識がない者に、公的なものへの関心、感情、責任意識など育つはずがない。私の所有に対する重さが解からなくてどうして公的な所有に対する重さが理解できるだろうか。摂理だみ旨だと御題目を唱えながら、投げ入れてきた、そして垂れ流しにしてきた人材とお金の重さがどれ程のものか、そしてその恐ろしさを少しでも理解できる者であれば、言葉は慎重にならざるを得ない。未だに大風呂敷を広げる食口がおり、未だに何の躊躇もなくそれに乗っかる食口がいて、開いた口が塞がらない。

この秋に想う 

長雨で数日間風雨に晒され、木々には枯葉が目立って、今年のこの辺りの秋は紅葉になり切らずに終わるのだろうか、と思っていた。しかしその後晴天が続き、日中の間の残暑と夜中から明け方にかけての冷え込みが葉の色付きに拍車をかけたようで、昨夜の強い風で枝にしがみ付いていた枯葉が飛ばされ、明けた今朝の景色は実に鮮やかそのものだった。青い空を背景に様々な色合いの赤や黄色、茶や緑色が、陽の光を受けて輝いている。DCを囲い込んで循環しているハイウェイを走り、高い位置に差し掛かる度に、柔らかな起伏が広がる一面の紅葉絨毯が見下ろせる。前を見て運転に集中すべきなのが口惜しい限りだ。この色合い溢れる光が自然の実りだ。冬を越えて春夏秋と育んできた地上の実りだ。人間にとっての収穫祭は食物にのみ関わっているのかも知れないが、霊的存在達にとっての収穫祭は地上の光の収穫祭であり、地上の愛の収穫祭だ。御父様の聖和から一周年、地上の被造物達は嘆き悲しむ喪の期間を既に越えて、冬に思考しながら霊的な御父様を認識し、その霊的御父様に焦点を合わせて春を迎え夏に育み、そうして実りの秋に光であり真の愛の御父様への精一杯の美の御返しを捧げている。その点では被造物の方が人間よりも余程摂理的に前進している。立ち遅れている私達は被造物達ほども霊的な御父様を認識してはいない。一周年を越えるのに、地上の御父様という輪郭に未だに拘ったまま、内的霊的な見出し方、迎え方、接し方がわかっていない。御父様の勝利圏は御題目ではなく現実だ。しかしその意味もわからず勝利圏の相続をわかったように口にするけれども、それならただの御題目だ。概念もイメージも伴わない御題目だ。内的霊的な現実を見通せる私達でこそ、摂理を本質的に担うことができるのであって、或る一宗教の教主が亡くなったのと同じような認識だけを聖和に見るなら、私達は永遠に宗教の次元を越えることはできない。宗教の次元を越えることができなければ霊的御父様を見出し、霊的御父様が私に働いておられる実感などない。秋の青い空に輝きを放つ紅葉のように、私は御父様の真の愛を受けて色付き輝く存在になっているだろうか。それとも昨夜の強風に煽られて、散って地の塵と変わり果てた、蹲る枯葉の一枚にすぎないのだろうか。

2013年11月2日土曜日

今日の想い 654

10月から年末までゴッホ展をやっているというので、妻と二人でフィリップコレクションという美術館へ見に行ってきた。地下鉄で行くと、乗り換えなく30分で美術館近くのデュポンサークル駅につく。この駅の長い長いエスカレーターを昇って地上に出て、携帯で位置を確認して2ブロックほど歩く。右手に趣のある赤レンガ色の建物が現れ、これに違いないと建物に沿って右奥に移動すると入り口に辿り着いた。着いたのが11時手前だったが、次の観覧が11時だと言われて待ち時間も無く、そのまま三階の展示場に向かった。ゴッホはここアメリカでも人気らしい。品の良さそうな年を召したカップルが多かったが、平日の朝にも関わらずスーツ姿の若い人達も結構いた。いろんな美術館から集められたゴッホの絵は30点あまりだったが、やはりその中でも目を引いたのは最初の展示室に展示されていた「道路を直す人」だ。題名はそうだが、並木として配されている大きな数本の木が主役のようで、遠近に並べた大振りの木が向かって来るようで目を惹きつける。太い輪郭で踊るような幹振り、というのか枝振りと言えばいいのか、が強調されて、描写のタッチが今にも動きそうな生命力溢れる木を描き出している。美術には疎い私でも、ゴッホが、目に映らず魂に映るものを描きたいという強い彼の衝動をしてキャンパスに向かわせたのがわかる。美術家達がゴッホの絵をどう捉えているのかは知らないが、色彩は黄色系と青色系を主に使っており、描写は点描でも線描でもないその中間を用いて、魂に映る生き生きとした何かを描き出そうとしている。ゴッホの絵の中には、同じ構図、同じ景色で描いているが色彩やタッチが異なる複数の絵を作成しているものが数多くあるが、描こうとしているのが生命なのか、魂なのか、或いは更に深みの霊なのかを問いながら描いているので、同じ構図、同じ景色で何度も描くことに飽きることは無い。「道路を直す人」は壁を違えて2点並べて展示されていたが、一方は黄色系に強く傾き、もう一方は青色系を含めて描かれている。そしてどちらも、自然のものは点描でも線描でもない動きのある独特の描写で、人工的なものは素直で滑らかな描写で描かれている。ゴッホの絵を見た後で見る木々や自然の中に、目に映る色彩とは別の色を見ようとし、自然の静止に動きを見ようとする自分がいる。ゴッホの絵には夜の空を描いたものも多くあるが、闇夜でさえ動きのある生き生きとしたものとして描いている。それを見れば闇夜の中にも動く生き生きとしたものを見ようとする。唯物的な感性に支配され続けた現代人に、魂への気付き、霊への気付きを与えるという意味で、ゴッホは一人の画家としてみ旨への大きな役割を果たしたと思っている。奇怪な事件や、不審点もあるが銃による自殺や、他の才能ある者達と同じように彼もまた極めて悲運な生涯を送っている。それもまた犠牲であり、供犠であり、その当時、未だ悪霊の跋扈する心魂界や霊界への感性を持ったが故の、免れ得ない犠牲の結末となってしまった。


2013年11月1日金曜日

今日の想い 653(勝利の公式)

世の中を収拾するためには霊界を収拾しなければならない。霊界と押し問答しながらこの方法しかないと説得できて初めて、地上界の世の中を収拾することができる。ビジネスに関わっていると、いろんな意見が口から出まかせに投げ掛けられる。儲け話のこんな話、あんな話、一瞥してこれはいける、あれはいける、ありとあらゆる方法、ありとあらゆる商売形態を霊界でハンコを押されることなしに手を付けようとする。この世の者達はまだお金の価値や意味を肌身に感じているので、話に乗ること位は考えても見ないでもないが、こと兄弟食口が持ち込む話ははなから胡散臭さが鼻について、明らかに銭失いの将来がありありと見えて落胆させられるだけだ。彼らの口説き文句は、店を増やすことが御父様の願いで、何もしなかったらみ旨ではないと言うことらしいし、たとえ失敗するとしてもやらないよりやったほうがいいと言うことらしい。霊界のことがまるでわかっていない。霊界のことを知らない世の中の人は霊界が公認する覚悟を差出すことで我知らず霊界を説得しているし、それ故に地上で収拾することができる。すなわち地上の実体化をものにできる。食口は霊界のことを知ってはいるが、多くは霊界のことがまるでわかっていない。知識として霊界を知ってはいるが、どう働くのかの認識がまるでない。「世の中を収拾するためには霊界を収拾しなければならない。」と言う言葉は誰でもない御父様のみ言葉だ。御父様が地上で勝利される前に43日間の霊界での戦いがあった。血統転換、所有権転換、心情転換を、聖賢聖者、四大聖人、はては神様まで加わって総反対、総いじめの洗礼を浴びせたのであり、それでも納得させ押し通して引かなかったから最終的に神様は屈服し全霊界が屈服した。御父様は霊界を収拾されたから地上での勝利をもたらされたのであり、そうであるなら私達が地上での一つの勝利圏を立てるにもそれ相応の霊界を収拾しなければ結果はあり得ない。これから為そうとしている案件に対してどれだけ霊界と押し問答したか、霊界を納得させたか、言い換えればこの方法で確実に勝利できるという確信を得たか、生命を差出すほどの覚悟があるのか、を問わなければならない。はっきり言って、食口は先ず地獄を見るべきだ。地獄から這いあがった者だけが勝利の公式を伝授できる。