2014年5月30日金曜日

今日の想い 749

私達は新たな歴史創造を為している。その認識が言葉だけではなく意識的に歩みの中に浸透されなければならない。創造は抽象的な観念として掴みどころのない雲のような創造気分に浸ることではなく、具体的であり実体化できなければ創造とは言えないだろう。しかしビジネスに関して言えば、既にこの世に存在しているビジネス内容を学んで模倣することが創造だと言えるだろうか。この世のシステムや発想に倣って結果を残すとしても、果たしてそれは創造だろうか。扱う万物それ自体は堕落してはいないからそれでいいとしても、この世のシステムや発想には堕落的なものが既に浸透している。しかもそれらが生活基盤になっているのであり、それを否定しては社会生活は成り立たない。では歴史創造、新しいビジネス創造はどうやって為すのだろうか。正直に言ってわからない。解からなくて当然なのかもしれない。そこに踏み込もうとすれば創造に加担するだけではなく、創造主になろうとすることなのかも知れない。創造主は天の父母様であり、一体となられた真の父母様こそ実体の天の父母様であられるので、御父母様に侍ることで一体となった私を通過して創造が為されるはずだ。侍ることで如何に天の知恵を得て天の御計画を知るのかはこれからの課題だろう。おもしろい時代になってきたとも言えるが、真の父母に侍ることから距離を置いては一寸先も見通せない時代でもある。御父母様の願いとしてのビジネスであっても、ビジネスという外的摂理であればどうしても外に外に意識が向いてしまう。外のこの世の成功者達に追いつけ追い越せとばかりに歩んでいるけれども、本当に外的に立てるべきは、万民が御父母様を侍ることができるようなビジネスシステムを構築することだろう。私が御父母様に侍るのは勿論のこととして、万民が御父母様に侍ることができるよう、ビジネスという受け皿で彼らの精誠を吸い上げることが必要だ。私達のモットーは、「創造主、天の父母様に似た、真の愛を実践する天一国の真の主人になろう!」である。敢えて創造主と文頭に置かれた意味を尋ねることが必要だろう。私が尋ねて返った答は最初に記した言葉だった。私達は新たな歴史創造を為しているのである。霊界の高みに昇られた御父様に侍り、地上に残られた御母様に侍り、歴史時代を超えた位置で新たな歴史創造に加担している。

2014年5月29日木曜日

今日の想い 748

一般的に言われるところの歴史認識などというものは主観的なもので、その主観は決して正しいと言えるものではなく、思い込みの基礎の上に立てられ、観をどう立てるかによって、あると言えばあり、ないと言えばないと言えるような、そんなものだ。歴史的事実は事実だと声高に言うけれども、それは何処までも認識の範疇であって事実ではない。教科書で教えられる、宇宙の成り立ちから始まって、過去にあったとされる全ての記載事項は全て認識であり事実ではない。更に今私が生きている現実に起こっている事柄でさえも事実ではなく認識に過ぎない。何かが蠢いている事だけは事実なのかも知れないが、そこに認識の判断を下すのはそれぞれの観に過ぎない。しかし絶対的であり確実に間違いのない事実として立てられるものがある。それが原理観の上に立って見通される事実であり、原理の核であられる実体み言、真の御父様によって差し出されるものがその事実だ。そうしてその事実だけが霊界で通じる。原理が述べるところの歴史は復帰歴史であり、蕩減復帰摂理の歴史であって、一般に知られる歴史事実と言われるところの歴史内容は原理を知れば知るほどその表情が変わってきて事実内容とは異なってくる。ようするに我々が認識するという行為に、主観による善悪判断が為されているし、そこには当然のこととして主観による感情が混入されてしまうからだ。誤解を恐れずに言うなら、私達の倫理や良心基準から見るならおかしいだろうと言えるような内容が、天にとっては善であったりする。旧約聖書を見るなら一般的良心基準からするなら首を傾げる内容が至るところにある。日本には日本の言い分として歴史認識があり、一方、韓国では日本とは全く異なる言い分が歴史認識としてある。それは認識である以上認識の範疇を超えて事実とはならない。認識は認識であっても、より善なる認識かどうかが問題であって、より善なる認識を天がとり、土台となって次なるステージに展開される。歴史時代はそうだ。しかし歴史時代を超えた新しい歴史創造の時代霊からすればどう見るだろうか。日韓のこの反発を歴史時代の名残と放って置くだろうか。ここDC界隈でも慰安婦像が立つと言うことで、日系と韓国系との亀裂を生んでいるけれども、ここまで反日思想が徹底されると認識は事実の顔になりすます。私が思うに、新しい歴史が日韓の一体化を本当に望んでいるからこそ、この反発が起るのを許しているのかも知れない。というのは、夫婦間の一体化も、お互いが猫を被っていい顔をしている仮面夫婦では一体化はあり得ないのであって、お互いの感情をどこまでもぶつけて、出し尽くして初めて一つになれる道が見出されるからだ。そうなると日韓の関係も本当の一体化を願われて、敢えてこの状況を作り出されているのかも知れない。韓国が父の国、日本が母の国として一体化してこそ世界理想実現への門戸が開かれるからだ。韓国も日本も、父である、母であるという認識など今は全くない。認識がないのにどうして父母として一体化して正分合の合である世界理想実現が為せるだろうか。一体化はすばらしいことだけれども、一体化への道筋は決して絵に描くような生易しいものではないはずだ。幾度と無くぶつかり合い、闘争を超えての一体化だろう。

2014年5月28日水曜日

歴史時代を越える (2)

普通の人間は未来に希望を置くけれども、本ものの統一食口は御父母様に希望を見る。御父母様こそ希望の実体であられ、よって御父母様に如何に侍り一体となるかが私の希望となる。その論理はわかるとしても現実の私は漠然とではあるが、ああしたいこうしたい、ああなりたいこうなりたいというそれなりの希望を未来に置いて生活している。もちろんその希望が私のみ旨にプラスになるはずだと信じての希望であり、そこに堕落的な動機はないと思っている。しかしそれは歴史時代の宗教が必要な時代の在り様であって、歴史時代を超越した新しい歴史創造の在り様ではないだろう。事実、み旨にプラスになる漠然とした希望を未来に置いて歩むことと、私の希望を御父母様に見て御父母様にどこまでも侍り一体となる歩みとは根本的に異なる、と言うか次元が全く異なる話ではないかと思える。明日こうなりたいとか、将来的にこうでありたいとか、それを全く否定しろという話ではなく、御父母様に侍って一体となりたいという希望を先ず立てること、それでこそ現実の未来に置く希望が成立するし、現実の希望が御父母様に侍り一体となる希望の表現として表出する。もし真の父母が現れなかったら、為に生きるだとか犠牲精神で与えつくすだとかの言葉と希望という言葉は相容れない。真の父母が存在しない歴史時代はそうなる。イエス様の死は確かに人類に犠牲精神を喚起したけれども、どれだけ犠牲的生を歩んだとしても真の父母の子女になるという天の血統圏に入ることが出来、神様との一体理想を成し遂げることは何代を経たとしても至らない。それは、イエス様は真の父母になれずに歴史時代は延長されたままになったと言うことだ。歴史時代はその使命を全うして引退し、歴史時代を超越した歴史の創造が始まったという事実。そして希望の実体である真の父母を戴いているという事実。それが御父母様を慕い侍る私と共にあるという現実。未だふらふらしている私であるとしても、私の片足は確実にその事実と現実に足を踏み入れ、この世的希望を超えた希望を捉えている。み言葉を受け入れ、真の父母に侍る統一食口であるけれども、子供こそが希望だと、それは御父様が血統の重要性を語られ、三代圏を語られ、よって子供の祝福が問題であり、この世的な結婚や肉的に不倫な関係を持たないかと神経をすり減らす。しかし御父様はこうも話される。「復帰の第一基準は神様の息子や娘になるだけでなく、子女の位置を経て、夫婦の関係を結び、真の父母となって新しい血族を立てることです。これが人間の創造目的であり、人類歴史の新しい出発基準になります。ですから国や民族、氏族が問題ではありません。また、息子、娘が問題ではありません。」ここで血族を立てると言われながら息子娘が問題ではないと言われるのはどうしてだろうか。明らかに肉的な血族を意味する言葉ではないとは思えないだろうか。私達は霊的な事を信じる一方で余りにも肉的なことに拘っている。もし子供が何らかの問題を起こしたなら、起こしたことよりそれであぶり出される父母としての態度の方が問題だろう。祝福を肉的教条的に捉えていて、子供を裁き自分を裁き、それが祝福自体をも裁いていることになりはしないだろうか。肉的に捉えれば御子女様達さえも問題があると言うことになる。しかし御父母様は真の父母として何の揺らぎもない。祝福家庭として子供に対する親の重荷を下ろせと言っているのではなく、真の父母に侍り一体となり更なる重荷を負え、より全体の位置に立つ父母としての犠牲の祭壇を供えろと言うことだ。子女が祝福を受けてくれて祝福三世を抱かせてくれて、それで三代圏の達成だと喜ぶのであれば、家庭の父母は立つのかも知れないが家庭の父母を犠牲とする氏族父母、さらに国家父母、世界父母が立つ為には誰がどうやって犠牲の祭壇を供えるのだろうか。御父母様の相対圏に立つべき統一食口としては、自分の家庭に留まってしまうのは短絡的であり自己中心的でもあるように思える。

2014年5月27日火曜日

歴史時代を越える

私達の希望は何であり、その希望を何処に置いて向かっているのだろうか。豊かな暮らしだろうか。豊かな暮らしを未来に置いて向かっているのだろうか。豊かな暮らしが私達の希望と言える切実なものだろうか。おそらく統一食口であればその希望は付属的なもので、もっと本質的な希望を持っているに違いない。では子女が祝福を受けることだろうか。そして家庭を出発し祝福三世を見ることだろうか。あるいは氏族がみ言葉を受け入れ祝福を受けてくれることだろうか。しかしそれにしてもそれらの希望は未来に置かれていることは間違いないだろう。希望は未来に置くものだという固定観念が人間の中に既に備わっているからだ。それでは希望を過去に置くという概念はあり得るだろうか。そんな言葉の遊びに付き合えないと一蹴される前に言うべきことは、これははっきりと語られた御父様のみ言葉だということだ。「今まで歴史は未来を見つめてきました。それは希望が未来にあるという意味です。しかし統一教会の希望は未来にあるのではなく過去にあります。ここでの過去は歴史的過去を超越したものであり、現実を代表したものです。過去の結実であり、現在の中心であり、未来の出発基点です。全体を統合した中心です。ですから歴史を超越しているというのです。」この世の中は希望を未来に置いているが、統一教会は希望は過去に置いているというこの意味するところが理解できるだろうか。御父様は歴史時代という言葉を使われるが、現実にはこんな言葉はない。現実をこえた言葉として使われている。歴史時代が終わったと言うこととこのみ言葉は関連しており、歴史時代の範疇にあれば希望は未来に置いているが、歴史時代が終わった歴史を超越した位置では希望は過去にある。歴史時代の過去と歴史を超越した位置で言う過去とは異なり、み言葉にあるように現実を代表した過去となる。益々混乱することしきりだけれども、別の過去があると言うことは歴史的時間軸以外の時間軸が存在していると言うことであり、アダムとエバを始祖とする歴史的時間軸ではなく真の父母を始祖とする歴史的時間軸を超越した時間軸があって、統一食口は全く新しい超越歴史としての歴史の創造加担者であり、超越歴史の先祖だということだ。今までの歴史時代の希望は真の父母を迎えることだった。時代という言葉を機械的時の流れの区割りと認識するから解けない訳で、時代=天の使命を受けた時代霊だと認識しなければならないし、真の父母を迎えたことで一つの時代霊の使命が完遂された、即ち復帰摂理の為の歴史時代が終わったということだ。新たな超越歴史は天宙の中心である真の父母にどう侍っていくかという再創造ならぬ新たな創造摂理の出発となる。よって私達統一食口の希望は豊かな生活でも形だけの祝福理想でもなく、どこまでもどこまでも御父母様を慕い侍る私、強く広く深く御父母様に慕い侍る私になれる希望を切実に抱いてこそ、未来に希望を持とうとする歴史時代の堕落的私を超越できる。

2014年5月23日金曜日

今日の想い 747

人間の自我意識が芽生えることと、霊的世界の低次の領域で夢想することとは相容れない。ノア以前の古代の人間は自我意識の芽生えさえもなく、まさしく僕の僕状態で動物にも劣っていた。人間の自我意識が芽生えたのは洪水審判以降であり、徐々に自我を確立しながら、現代の人間の意識状態を獲得できたのはメシヤ準備時代であり、その頃急速に自我意識の確立が為されていった。現代の人間が論理的に理解できるのはギリシャ哲学からであり、それ以前に記されたものは古代インド哲学に見るように実に夢想的なものばかりだった。それはまだ自我意識が芽生えていなかった全体意識の霊視による思考であり、現代の概念による思考という概念という自我意識による把握に拠らなければ成り立たない思考とは異なる。よって古代の思考はイメージ思考であり現代の思考は概念思考と言えるが、実は概念は霊視すればイメージとなって現れ、現代人が思考している状態を霊視すれば、様々な概念の霊的生き物を戦わせたり合わせたりするのが見える。人間の意識状態が進化していくと同じように自然環境もリンクして進化しており、洪水審判以前の大気は現代に見るように青空が広がり澄み渡った大気が広がっていたのとは異なっている。太古には大気は濃い霧状態にあって青空など見えてはいない。大気の密度が濃い、まさしく大気の海状態から、洪水審判という終末時代の大雨で始めて太陽が見え青空が見えて大気は澄み渡り、自然環境がそうなったから初めて虹を空に見ることが出来るようになった。洪水審判以前に虹はないし、太陽がはっきりと顔を出すことも無かったはずだ。そうなると自我意識と太陽との関係性を問わずにはおれないが、霊的感性で捉えられる事実として自我の明るさは太陽の霊的性相的な明るさに拠っている。しかし現代の私達の自我意識が創造本然のものかというと異なり、それは自体自覚に留まる限りは堕落的自我意識の枠から超えられない。本来の自我意識は他体自覚であり、他体自覚に目覚めた者は古代の霊的世界の低次の領域に留まらず、高次元の霊界さらには神界の領域まで見通すことが出来る意識を備えることができる。そうなると霊視そのものも過去の低次元の霊視とは次元の異なる、まさしく開闢霊視となるはずだ。人間がそこまで位相を上げることができれば、今では実に難解な御父様のみ言葉も、霊的知の獲得と共にみ言葉の本質を受け取ることができるはずだ。古代の人間が概念世界を理解できなかったように、現代の人間が心情の世界であるみ言葉世界をなかなか理解できない。御父様を受け入れた食口であってもその理解は未だ限定的だ。ましてや反対する者達は彼らが理解できる概念でみ言葉をはかり、後天開闢時代という心情世界に越えていくことは出来ない。それは洪水審判で波にさらわれ死滅していった古代人間とまったく同じで、己の限定的思考に執着してしまい、新しい世界に超えていける天宙船に乗り込むことを辞退した者達だと言うことだ。

2014年5月21日水曜日

今日の想い 746

絶対信仰と盲目的信仰を混同していて、納得できないにもかかわらず、兎に角行け、やれ、と言われるのにどこまでも従うのは盲目的であって、絶対信仰とは言えない。その真意が後になってわかり、やらなければその時後悔するだろうから、と言うのが基本姿勢であったのは確かだけれども、その姿勢を私は貫けるとしても、孫子の代まで継承できるなど到底ありえない。堕落を知的側面からみると無知故のことであって、結局わからなければいつまでもサタンの罠に掛り易い、と言うかサタンの罠に掛り続けることになる。確かに若かりし頃は盲目的だったし、当時は食口誰もが霊的知の啓発は為されていなくて、お化けでも見れるのが霊的だと真面目に思っていて、信仰生命は中心者に預ける格好になっていた。それが当時では摂理的でもあったしそれで良かった。しかし盲目的信仰を貫けば絶対信仰になるのではなく、御父様が絶対信仰という概念を示されたのは良心に於いてと言うことであり、生殖器に対してと言われたこともあって、訳わからずとも中心者に従えという意味ではない。もちろん組織の一人して動くことが否定されるのではないが、上意下達一辺倒だったものから下意上達でわからないことは問い、意見もし、進言もできる組織にならなければ、組織は絶対信仰だと言いながらも盲目的信仰の土壌になってしまう。御父様は、わからなければ祈ってみろとは仰ったが、わからなくても歩めという盲目的姿勢は願っておられない。しかしながら今の現状はというと、私も含めて盲目的信仰の部分が殆どだろう。盲目的信仰で信仰の結果を見ようとするのは道理に合わないが、しかし絶対信仰の意味を問うことはできるはずで、そうしながら本来の信仰を取り戻し、信仰の動機(原因)が自分にあって始めて信仰の結果を自分の中に期待できる。ようするに霊的無知を解決して本来の信仰を獲得した分だけ信仰の結果は期待できるだろう。信仰はもともと能動的なものであるのに、盲目的という受動的なものに留まったままでは、自分の蕩減であり私が復活し私の天国だと言えるような実感的なものとはならない。祝福だってそうだ。祝福を受けて原罪は赦されたけれども、結局私のどこが変わり、子供も原罪のない二世なのにどこが違うのだろうと言うことにはならない。盲目的信仰は復帰基台摂理的であり、み旨を歩むにしても戒律的であり象徴的だ。しかしクリスチャン達は信仰素養があり、それは復帰摂理的であるし、み旨を歩むにしても形象的で成約時代に相応しい実体的み旨へと向かいやすい。クリスチャン達が不信した状況になったのは主の路程を聞けばわかるが、それにしてもキリスト教信者ではない私とクリスチャンとでは、個人的には何ら変わりは無いはずだと思っていたが、今までの私の信仰内容を俯瞰的に見れるようになると確かに大きな違いがあると思える。

2014年5月19日月曜日

今日の想い 745

統一教会ブログ村の数あるブログの中でも、み言葉を中心としたブログは数えるほどしかない。その一つのお気に入りを上げると、御言MISSINGーLINKだ。み言葉をただ載せるだけの受動型ではなく、み言葉の本質を受け取ろうとする意志を見ることができる能動的なブログだ。先輩家庭なのか後輩なのか、隅々まで目を通してはいないので定かではないが、食口の中にはまだまだ本ものがいると確認できて素直に嬉しい。本然の祝福家庭なのか条件的祝福家庭なのかと問いかけられるとき、心と体が闘っていれば条件的なものだと御父様は言われていて、そうすると誰一人として本然の祝福家庭は存在しないということになるのだろうか。勿論祝福家庭全員に問うてみなければならないし、問われたとしても心と体が闘うというその本当の意味すら解からずに答える者もいるだろうから、問う意味があるのかということにもなる。何度か聖酒を戴き祝福を受けたけれども、未だに心と体が闘っている状態を見れば、条件的なのか本然なのかは何の祝福を受けたかによるのではなく、受ける当人次第だと言うことになるのだろうか。後に「あなた達に与えたのは条件祝福だ」と言われたのは確かだ。ではやがて本然の祝福を受ける時が来て、その祝福を受ければ心と体が闘わない自分になれるのかと、教会祝福、国家祝福、世界祝福、そして天宙祝福と受けてきたけれども、しかしそれらは結局条件祝福であった。私にとってはそうだ。そして基元節で再祝福を受け、これこそが本然の祝福だと思っていた。私はそう信じていた。しかし再祝福を戴いて本然の祝福を受けたはずなのに心と体は闘っている。これをどう理解したらいいのだろうか。私達はこれは条件祝福だと念を押されて受けたわけではない。受けたときは祝福に条件と本然があるなどとは思ってもいなかった。祝福は祝福だと思っていた。おそらくそれは御父様もそうだったはずだ。サタンと神と御父様との間で聖酒を飲んだ者は原罪を許すという納得が為された。許されたことは事実だけれども、しかし人間に堕落性があってそれ故にサタンの主管圏から逃れることができない。よって蕩減を払い堕落性を脱ぐのでなければいつまでもサタンの主管圏内だ。祝福を受けた者が蕩減を払っていれば、或いは蕩減を払った者が祝福を受ければ、そこには条件的祝福などと言う言葉は出てこなかったはずだ。私達が蕩減を払っていないから祝福が条件的なものになってしまったと言うことだろう。その意味では私達がいつまでたっても蕩減を払わないので祝福を貶めていることになる。復帰された当時はいとも簡単に、そして突然に地上天国は為せると思った。しかし年数を経るほどに私達の中に堕落性が相当の部分を占めていることがわかり、蕩減を払うにしても自分自身である堕落性が死物狂いで拒む。決して容易いものではないことは年数を経る毎に益々その思いを強くしていった。条件的祝福にさせたのも私達であるなら、条件的祝福になったものを本然の祝福にさせるのも私達だろう。私達の自由意志と責任分担に於いて本然の祝福を勝ち取るのだろう。基元節、D-DAYを迎えるまでに為すべき指示事項があったはずだ。やったのはせいぜい210代の先祖祝福と総生畜献納くらいだろう。条件も供えることができずに基元節の再祝福だけはちゃっかり受けることができるかとなると、それも多分に条件的なものでしかないのかも知れない。

2014年5月17日土曜日

今日の想い 744

今、日本の民族魂が日本国の実情を憂いている。御父様が日本は五つに分割されてしまうと、数年前の神の日のみ言葉で語られたことがあるけれども、それが近々現実になるかも知れないという思いがどうしても胸の内に過ぎってしまう。平和ボケと言えばそうなのだが、それ以前に国への想い、日本国を愛する衝動が一般日本人の中にほとんど見られない。マスコミは何処も腐り切っていて、垂れ流している文言は国を否定するものばかりで、それらは十分売国奴と名指しするに足り得る振る舞いだ。今の日本の実情が本当に危ない、危なくてしょうがないことをどうしたらわかってもらえ、目覚めさせ、悟らせることができるだろうか。国の柱を支えるものは国民の想いであり国を愛する強い意志なのに、周りが海に囲まれて国の輪郭を取っているせいか、不沈国家だと信じきっている。一度、痛い目にあうしか目覚めることはないのかも知れないが、おそらくその一撃一襲で取り返しのつかないことになるはずだ。いい薬になったと言う様な調子の良い襲撃になることは先ずないだろう。自衛隊がどれほど立派な軍備を備えていて隊員の士気が強かろうとも、彼らを支えるのは結局国民の国を愛する意志の総結集であり、それなくして高い士気を維持できるものではない。どこの国の国民が口を尖らせてまで丸裸でいるべきだと謳う憲法を擁護するだろうか。丸裸でこそ警戒心を相手に抱かせないから戦いにはならないと、そんな理屈にもならない理屈に頷き信じているのだからどれほど御目出度い国民だろう。以前に洗脳されているという言葉をかけられた時、この聞きなれない新しい言葉に随分戸惑いもし、その意味を問いもして随分な言い掛りだと憤ったものだが、今の日本国民こそ丸裸信仰に洗脳されていると、洗脳という言葉が実にしっくりくる。御父様は以前、中国に媚を売る日本のことを裸のエバだと表現されたが、エバが取って食べられて(食べて)堕落して初めて事の重大さに目が覚めた訳だが、日本が裸の夢心地のままでほいほいと他国に犯され蹂躙されて始めて、国としての貞操を護れなかったことを悔やむのだろうか。そうして本当に心を許すべきは隣国の韓国であったと身を寄せるのだろうか。失楽園の物語を現代の国家レベルで展開しかけたのは日中友好条約が結ばれた時だったが、母の国として立っている今、隣国と夫婦喧嘩をしている暇などない。日韓の一体化とは表面的に仲良くすることではなく、日本の発展に必要なものが韓国にあり、韓国の発展に必要なものが日本にあることを先ず見通すところから始まる。そうなると喧嘩するにしてもそこに留まっている訳にはいかないことがわかってくる。それは復帰原理上も言えることだし、本然の夫婦関係なら尚更だ。韓国は国家的凸を持っているし、日本は国家的凹を持っている。それが何かは今述べる訳にはいかないが、その凸をして日本は護られる。

今日の想い 733

「人の噂は屁のようなもんじゃ。人を活かしもせんが殺しもせん。世の人は我のことを何とでも言え。我なすことは我のみぞ知る。」(坂本竜馬) 前半は司馬遼太郎が付け加えた言葉だが、後半の言葉は竜馬本人が書き残している。妻が急に若いときに読んだ竜馬の本を読みたいと言いだし、早速取り寄せて読んでいる。その中の一フレーズをメモしていて、私に言い渡したのがこの言葉だ。人は人の目を気にする。人が私をどう思うかを気にする。特に個の意識より集団意識が多くの意識分野を占める日本人はそうだ。私も日本人であって人一倍人の目を気にして行動している。集団意識の占める割合が多ければ多いほど自己中心的なものから遠ざかっていくかと言うと、事実はそんな単純なものではない。集団意識の中により複雑な形で自己中心的なものが入り込んでいて、意識上は他の為に生きていると認識しながら、意識下の領域で我のみを溺愛する自己中心がメラメラと燃えていたりする。日本のアベルカインは間違っていると指摘されたことがあるが、それはアベルのカインに対する在り方、中心者の兄弟に対する在り方の問題だと思っているけれども、アベルに対する在り方、中心者に対する在り方の問題でもありそちらの問題の方が大きい。兄弟は中心者が絶対権力を持ち何を指示されても逆らえないと内心深く思っている。しかし実は逆らうことを善しとしない私の意識が、ありもしない絶対権力を中心者に持たせている。中心者を御父様の代身として立て、その中心者に対して従順屈服するのは当たり前だと思っているが、それは心霊基準が低い間は頷けるとしても心霊が成長し高まるにつれて従順屈服する対象は次元を上げていくべきだ。逆らえないという否定的感情が芽生えている時点で本来はアベル的存在の位相は変わるべきだ。親子はいつまでも親子で親である私は変わらないと思っているけれども、子供が成長するに従い親も変わるべきで、さらに老いては子に従うと言うように逆転もするし、親にとっては親を卒業できる喜びこそ親の本当の喜びだ。教会生活によって青春を奪われたとか、虐げられたとか、今になって矛先を向けているけれども自分が成長できずに表面的に言いなりになっていただけのことだ。そういう者達は内面の奥深くに隠していた自己中心的堕落性が噴き出している現実を悟らなければならない。御父母様は日本食口の苦労を事ある毎に慰労して下さったし、その苦労を精誠の供え物として受け取られ誇りにもされた。しかしその一方で更に大きな要求もされ追求も半端なかった。苦労する者には更なる苦労を課せられ、それは御父様が私達日本の食口を愛しておられるからだと言いくるめられて殉じてきた。その実りを今本当に外的環境にも内面にも見ることができるだろうか。今こそ教会体質の在り様を一度清算して次に進まなければならない時に来ている。ここまで来てさらに盲目のまま突進してどうなるのかと真摯に考えなければならない。未だ私達全体にやらされ感があるとするなら、それはせいぜい僕の基準に留まったままだろう。環境創造も当人が受動的である限り創造の主人には決してなれない。御父様の半端ない要求の本当の願うところは私達の位相が高まり、次元を上げていくことだったはずだ。私達が私達の自由意志をして次なる位相に目覚めるべきだった。子女の自由意志と責任分担に加担できない親が親を飛び越える程の成長を願う叫び、我が子を千尋の谷へ突き落してでも成長を願う想い、私達はそれを、桁外れの実績を追求される御父様の目の奥に見るべきだった。霊界に行かれた御父様の地上にいる私達に対する意味は、汎神ならぬ汎御父様だと私は思っている。天正宮に訪ねなければならなかった御父様が聖和されて私達一人一人の中におられ、心の奥を訪ねれば御父様が居られ語りかけてくださる。だから私の心の奥を訪ねることで、我なすことは我のみぞ知ると言うことになる。

2014年5月15日木曜日

今日の想い 732

ビジネス摂理を与る私達は、カインの正道を歩む者として、フリーメイソンを超える現代の金匠となることが出来るだろうか。いや、ならなければ、御母様が力を入れておられる環境創造とはならないだろう。1金を100金あるかのごとく金証書を市場に出して売り買いの信用を受け取ったように、それは騙しのテクニックだと言えば言えるとしても、それが公の黙認となってしまえば経済の発展に寄与することになる。現代の銀行システムはこの金匠達の延長線上にある。品物に金銭を払うことで先祖解怨ができるという信仰から、品物がなくても金銭を捧げることで先祖解怨ができるという信仰は、先祖の救いということに限れば1の信仰が100の信仰になっている。そこに騙しがあるなどとは全く思わず、大母様の精誠があって可能になったと認識しているように、銀行システムの始まりとなった金証書も、騙そうと思ってそれが動機となったのではなく、そこに何らかの地上的精誠があったと見るべきだろう。心情の流れが精誠となり、精誠の流れが太くなってこそ地上の価値鉱脈を見出せる。あるいは創造する。イエス様の霊的勝利がここまでの地上の発展をもたらしたのは、ひとえに霊的勝利によるクリスチャン達の新婦信仰、新婦信仰による精誠が現代の価値鉱脈を見出させた。では御父様を慕い御父様に侍る私達統一食口はどうだろうか。御父母様の実体勝利を相続するには信じるのを越えて侍るのであり、侍る精誠こそが後天開闢時代の価値鉱脈を見出せるはずだ。私達は今まで訳もわからず歩んできた。クリスチャン達には内的霊的基盤もあり外的地上的基盤もあるが、私達には何もなかった。未だに見通しも戦略もないままで闇雲に歩んでいると言われればその通りだ。訳もわからず歩んできたけれども、それでも縦的なものを立てながら横的に流れることなくここまで来たというその事実が、私達が摂理の本道であることを自覚させる。御母様直接に御会い下さり、御父様が打ち出された摂理として継続するように見守って下さる御母様がおられる。未だに見通しがきかなければ不安にもなり、焦る思いも出る訳だが、御母様の後ろ盾を得て歩む以上は何としても形にしたいし、何としても実績をお返しし喜んでいただきたい。その心情が本物なら、そして精誠が絶えることなく増し加えられて投入されるなら、必ず価値鉱脈が私達の目の前に現れるはずだ。それは世界経済を動かして余りある価値鉱脈だ。「また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。その第一の名はピソンといい、金のあるハピラの全地をめぐるもので、その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。」創世記2の10より、、。

イメージとしてのアダムとエバからより本質のアダムとエバへ

エバが堕落する時、アダムは何も知らずに蚊帳の外の存在だったのだろうか。森の中を走り回り、被造万物にだけ関心を持ち、エバには目もくれなかったのだろうか。始祖でありながら何とも幼いと言うか呆けた存在のように思えるのは私だけではないだろう。エバが他の存在に向かったのは当然だとさえ思えてくる。さらにエバが堕落してアダムを誘惑したとき、いとも簡単に落ちてしまっているようで、アダムの幼さと馬鹿さ加減が更に増してくる。実は創世記には堕落以前の様子が記されているけれども、私達に取ってはアダムとエバが想像できる人間アダムとエバとして存在していて、先ずそのイメージありきで堕落の様子を原理的に理解するようになってしまったから上記のような素朴な疑問が湧いてしまう。創世記によれば、先ず人が造られて戒めを与えられ、それから女が人から造られたこと。二番目として善悪を知る木は食べるに良く目には美しかったが、エバが造られる前に既にいろんな食べるに良く目には美しい木が存在していたこと。三番目として人は全ての存在の命名主であったという事と、一連の堕落の間は女とだけ記されていたエバをエバ(人類の母)と命名したのも人だということ。この3点を読み解きながら本質に迫って行きたい。最初のどうして女を造る前に戒めが与えられたのかを考えると、原理によれば善悪を知る木は完成したエバを例えて言った言葉とあり、それは生命の木が完成したアダムであるからという理由以外の理由は述べられてはいないが、アダムはエバを通して生命の木として完成すべきであり、それからエバはアダムを通して善悪を知る木として完成すべきであったはずだ。勿論それはアダムとエバが人間的に交わるのではなく、神様によって出会い、出会ってから一体となる必要があったと思う。前にも記したように縦的に出会うのであって横的に選ぶのではない。女を造る前に戒めが与えられたのは、霊的存在がエバと命名される女を造る以前に既に存在していて、人はいろんな霊的存在との関係性から地上概念を創造したように思える。それが園のどの木から取って食べてもよいと言う記述だ。全ての存在の命名主であったとはそういう意味で、既に存在していて名前を付けただけと言うのをわざわざ聖書に、それも創世記に記す必要があるのかという疑問だ。さらに取って食べていい他の木は物質的に食べる果実で、善悪を知る木だけを特別な意味での取って食べる果実と言うのもどうも合点がいかない。私は創世記の全ての事柄は霊的に捉える言葉であり、一つとして物質的に捉えるべきではないと思っている。女がエバとして地上存在になったのもアダムが関係性をもったから完全な地上存在になり、よってアダムはエバ(人類の母)と命名した。前にも記したが、聖書には天地創造される第六段階で、「神は自分のかたちに人を創造され、すなわち神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」とあるが、原書には男女に創造された、すなわち二性同一体として創造されたとある。人から取った肋骨でひとりの女を造って連れてこられたのは、第七日に休まれた以降のことだ。そして創世記第4章の書き出しには、「人はその妻エバを知った。」とわざわざ記してある。それは取って食べることと知ることを分けていると言うことであり、それは取って食べることは一体化を意味し、知ることは生殖行為を意味しており、肉的堕落は霊的堕落した女との一体化の結果と見てとれる。これらの考察は決して根拠のないものだとは思っていないが、私の独断と偏見には違いないとしても、森の中を裸で走り回るアダムとエバのイメージよりはまだこの世の知者を振り向かせるものがあると思っている。

2014年5月13日火曜日

今日の想い 731

「恩賜が多い神様の愛の圏内に入れば入るほど、頭を上げることのできない罪人です。」 御父様が私達に証して下さった神様は、喜ばれる栄光の神様ではなく、苦痛と悲しみと恨の神様だというこの事実を、私達はどれほど踏まえて歩んでいるだろうか。私の喜びの為ではなく、私の平安と幸せの為ではなく、私の栄光の為ではない、苦痛と悲しみと恨の神様を解放して差し上げようとする立場に立ってこそ、私は神様の対象圏に立つことができる。天の父母様と声を上げることのできる息子娘だと私も断言でき、神様も息子娘として抱いて下さる。自分のみ旨を歩む動機が、己の為、己の幸せの為なのか、それとも神様の幸せの為なのかは、同じみ旨を歩んでいるように思えても全く異なる。言い表せないほどの苦痛や悲しみを味わうとしても、私が味わうことで、神様の苦痛や悲しみを少しでも和らげることができるなら、この苦痛や悲しみを受ける立場がありがたいと思えなければならない。さらに神様の息子娘であるならば、一つの悲しみを味わう場であっても、一方でその何倍もの喜びを味わわれる神様の宝座を用意する私を準備し、逆にひとつの喜びを味わう場であったなら、一方でその何倍もの悲しみを味わう場に向かおうとする私を準備しなければならない。そんな私の在り様が生活化し、心魂の在り様が習慣化するなら、確実に神様は私の中に臨在して下さるはずだ。上記したみ言葉は、通常の論理を宛がうと矛盾している。蕩減が払われて罪の度合いが減れば減るほど受け取る恵みの度合いが多くて当然であるのに、であれば恩賜が多ければ蕩減が払われた結果であり、すなわち罪は減っていると考えるのが妥当だ。しかし私達は通常の論理と、み言葉の論理(と言えるのかどうか)は異なることを当たり前のように知っている。通常の論理は地上的平面的であるのに対して、み言葉の論理は霊的、すなわち心情的であり立体的だ。杓子定規では測れない多次元の論理に、知らずうちに生きている私達だと言うことだ。知らないうちに私達は霊的高みに生きている。しかし今共に歩んできた食口でさえも、霊的高みに生きる者と、地上の堕落圏に縛り付けられた者とが目に見えて分けられている。責任者の誰それが着服しているとか、特定の責任者だけが教会を牛耳っているとか、はたまた御母様の役不足まで口にして、勿論そんな平面的低次元に下りてこられ合わせられる御母様ではないが、彼等は一体何を学んできたのか、結局は穿った目を捨てられないまま教条主義的なフィルターを通して、み言葉の鞘だけを受け取って武器にしている。彼らに取って具体的感覚的な罪を犯さなければ、罪人であるという意識など本当はひとつもない。

2014年5月9日金曜日

今日の想い 730

「女性は男性に出会わなければならず、男性は女性に出会わなければならない。」このフレーズはいろんなみ言葉の中に見出されるけれども、軽く素通りしてしまいがちだがよくよく問うて見るべき内容がある。「出会って一つになり、そこから子女が生まれてこそ、平面に神様が着陸される」訳だが、出会おうにも周りに男性も女性も溢れているのであり、女性は男性を、男性は女性を数多存在するそれらの中から選ぶのではなく出会うとはどういうことだろうか。祝福家庭であれば自分で相対を選ぶのではなく御父様によって私の相対に出会わされたという認識が当然あって、だからこのフレーズに何の違和感も覚えないのだが、二世に取ってはどうなのかという祝福の直接の問題がある。選ぶとなると本来の相対には出会えないとすると、どうしたら出会えるのだろうか。二世祝福も親が決めるとしても親ですら選ぶのであり、それが子供に取って出会ったことになるのだろうか。御母様は御父様にとって最初の相対圏に立った御方ではないことは誰もが知っている。そうすると最初の、あるいは二番目に立たれた相対は本来出会うべき御方ではなく御母様こそが唯一出会うべき御方だと断定してしまうと、御父様ですら出会いによるのではなく選択してしまい間違われたのだと言うことになる。しかし正しく出会わなかったのではなく御父様の相対としての使命を全うできずに次なる摂理を用意されたのであり、再臨のメシヤとして真の父母となるべく第一優先的使命があり、最初から紆余曲折なく勝利される御母様に出会うのに何の問題もないなら実に簡単な復帰摂理だと言うことになる。アダムとエバが真の父母になれなかった現実、気の遠くなる歴史を費やして準備しながら、それでも結婚すべきイエス様が結果的に相対を迎えることが出来なかった現実、それは正しく出会うことの難しさを歴史が証明している。御父様が勝利される御母様に出会えたのは奇跡的であるし、私達が祝福を受けて相対に出会えたと言えることは奇跡に近い内容がある。出会うとは既に特定された相対が既に存在していてそれを見つけるのではなく、ましてや選択するのでもなく、出会ったと言える相対になる意志と相対にする意志が私の中に縦的位置から発せられ夫婦一体圏となれば出会えたと断言できる。アダムに取ってはいつエバに出会うかという自由、或いは出会わないという自由もあったけれども、エバ以外と出会う自由はなく、既にエバに出会うことは決められていた。しかしエバに取っては少なくともアダムとルーシェル、さらに他の天使とも出会う自由もあり、いつ出会うかという自由もあった。アダムは時ならぬ時の行為という堕落の可能性はあって、事実それで堕落したのだが、エバのように誰を取るかという選択の自由はなかった。よってエバこそが横的な選択という自由意志を手にしていた。しかしエバが選択ではなく出会うためには縦的な天の意志が関わるべきであり、横的な自由意志に任せてしまうと出会うのではなく選択となる。エバは縦的な意志より横的な意志を優先したために堕落へと突き進んだ。親が子供の相対を決めるとしても親の横的な意志が入り込む選択であってはならず、縦的な天の意志が関わる出会いでなければならない。御父様が聖和される以前から、親による祝福マッチングは許可されているけれども、御父様が地上におられない今、選択ではなく出会うマッチングとなるためにはどうしたら縦的な意志が働くことが出来、正しく出会うことが出来る器を地上に用意できるかが私達に問われている。

2014年5月8日木曜日

事故に思う

原因も結果も一通り知れ渡るところに至った今だから、事故について触れることが出来る。全ての事故について言えることだけれども、外的原因と外的結果だけを見てそれで終える(納得する)ことができるかというと難しい。それは事実の一角であり、その外的認識の背後に内的霊的内容の多くの事実が秘められている。とりわけ被害者家族や関係者は感情的に治まらないものを長い時間をかけてこれから解決しなければならないが、彼らの問い詰めていく意志を中心として事故の事実という本質が地上に浸透していく。家族にすれば外的原因をどれだけ説明されても憤りや悲しみは治まるどころか燃え上がり、或いは更に冷たく凝固するだろう。どうしてうちの子供が巻き込まれなければならなかったのか己の心魂の存在する限り問い詰めざるを得ない。内的霊的事実はそういった犠牲を払いながら受け取るものであり、霊能者が簡単に口にできるようなものでもないし、蕩減だと一言で片付けられるものでもない。悲惨な事故が起こり、被害者や家族の心苦しい想いを察する度に、御父様の建てられた祝日が心に思い浮かぶ。それは他でもない愛勝日だ。彼らの感情を根本的に解放してくれるものが、この愛勝日の宣布であり愛勝日のみ言葉だと思っている。愛する家族が打たれ犠牲になれば、憤るし悲しみに暮れるのは当然だ。それが地上の現実と霊界の事実の両方に存在を広げる心魂存在である人間の有りのままの姿だ。心魂活動、特に感情の部分で肉と霊が相矛盾する噛み合わない葛藤を噛み合わさなければ肉と霊が分裂してしまう。その肉と霊の相克を御父様は愛でもって超えられたのであり、よって愛勝日を宣布された。そこには犠牲という私達の概念が見事なまでに愛の喜びの概念として生まれ変わっている。犠牲という忌々しい言葉が祝福の言葉に変わっている。事実御父様は子供の死を感謝されて、その高次元の喜びは人類の救いをその死でもって勝ち得たという喜びであり、それは子供の父としての御父様ではなく人類の父としての御父様であり、その位置に立たれる為には死に逝く子供自身が何のわだかまりも無く御父様の喜びを共に喜ぶ父子一体圏が必要だったはずだ。痛ましい事件をいつ果てるとも知れない時間に委ねるしかなかったものが、御父様の愛勝日によって愛で乗り越えることができることを示された。生きて地上に存在しようが肉体を離れて霊界に存在しようが、父子一体圏、親子一体圏は為し得るはずだ。悲しみ切なさで向かうのではなく、犠牲がどれほど高次の愛と生命を地上にも霊界にももたらしたかを得々と語りかければ昇華した晴れやかな想いが届くはずだ。被害者家族に対して、愛という言葉はわかった風に軽々しく使うものではないけれども、愛の本質である真の愛でこそ乗り越えることが出来る。愛する戦いを勝利した者に対しては、人類全てが、全ての霊人達が頭を下げる。

2014年5月6日火曜日

今日の想い 729

生きてこそのみ旨であって死んでしまったらどうなるものでもない。死生決断は生きてこそのみ旨だからそう言える。死生決断とは死を決意するのではなく、死の決意を越える決意を持って生きるということだろう。生きて死の道を行くのであって、死ぬことで生きる道を見出す殉教とは異なる。生きてこそのみ旨だと、この事を先ずよくよく理解して子供に接するべきだ。地上に生まれてくれたこと自体が親にとって、特に祝福子女の親にとっては感謝してもし尽くせないのであり、子供に接するときには親としてのその想いが最も子供に伝わるべきだ。こう言うと語弊があるのかも知れないが、教会だみ旨だ祝福だと迫る前に、先ず生まれてくれたことへの感謝の想いを伝えることが最低限にして最重要な親の務めだ。そこは絶対に譲っては為らない。そこを蔑ろにして信仰がどうのこうのと言っても返ってサタンが踏み込んでしまう。自分の信仰観が暫定的なのに、その暫定的信仰観でものを言って受け入れられるはずがない。自分の思いや感情を度外視して愛することが、そして親としての犠牲的愛で投入し続けることが、み言葉を語る以上にみ言葉の本質に従っている。私達の堕落性であり勘違いでもあることのひとつに、わかったつもり、正しいつもりで行動しているというのがある。み言葉がわかったつもり、私の理解が正しいつもりであり、子供に対してもやはり、わかっているつもりであり正しく接しているつもりだ。教会に属する私という認識があり、教会の標準的信仰をもっていると認識しても、事と次第によってはその位置が正しく働かない状況が出てくる。ましてや教会自体が揺らいでいる中でその認識がどれほど役に立つだろうか。善悪判断は絶対的なものではない。正しいか間違っているかを子供に押し付けるのではなくて、子供がどうあれ全てを包み込んで愛するべきだ。私の全てを投入して愛するべきだ。親として出来ることはそれしかない。そうして子供に親の愛が届くなら、彼の中に与えた愛を根とする観が芽生えるはずだ。子供が望むなら別だけれども、親として教え諭すことができるのは愛が動機となっているかどうかであり、しかしその愛と信じているものですら堕落性と勘違いが見え隠れする不純な愛の場合が多いのも事実だろう。純度を高めて真の愛の基準に達するためには、とにかく愛するしかない。愛して愛して愛し抜いて、その永続性の中には偽りは住めないだろうし、偽りが真の愛に代わってくる。

食道(食の道)を考える

食べると言うことが一つの儀式だと述べたことがある。人は食べて肉の糧にする訳だけれども、霊と肉が人間に於いて一体となって関わっている以上食べることも霊と関連があると食口であれば思うはずだが、関係ないどころか食べることは宗教儀式だと私は既に勘付いている。全く当たり前で触れる必要もないことのようだが敢えて触れておくと、人間は起きている(覚醒している)時に食べ、寝ている(無意識)時には食べない。一端食物が喉元を過ぎれば、覚醒意志の必要のない眠る世界である無意識領域の意志に委ねる事になるが、喉元を過ぎるまでは起きた状態で自らの意志が必要で、さらに食べると言う意志を持たせる動機がどうなのかまで問わなければならないだろうし、この動機が霊的なものと直結している。動機がただ腹を満たすだけ、あるいは味覚的欲望を満たすだけだと言うなら、動物とさして変わらない肉的に生きる感覚人間であり、霊的な人間であることへの大部分を蔑ろにしていることになる。上体を起こした時に食べ、横になっている時には食べないというのも、マナーのように思えるけれども霊的な関わりがあって、そこに横的に食べるか縦的に食べるかという動機を問われている。御父様は食堂の食口と、レストラン部の兄弟達をそう呼ばれたけれども、食堂が食道になって、どう食べるかで霊的感性を発達させ、どう食べるかで霊の位相を高め霊的体験をするまでに至るとするなら、レストラン部として御父母様の願いの中心的部分に応え、統一的食事文化の基礎を築くことができるとまで思っている。今一つ別の側面から食べると言うことを考えると、「取って食べる」という言い方がある。「食べる」事と「取って食べる」事は同じ食べると表現するように関連性があるはずだ。「取って食べる」とは性的関係を結ぶことだけれども、口で食べるのは肉に直接的影響を及ぼす訳だが、性的に食べれば霊に直接的影響が及ぶ。食べればいいと言うものではなく、良く食べなければならないし、良く食べることを訓練しなければならないのは肉的に食べるのも性的に食べるのにも言えることだ。そして肉的と性的は相通ずるものが必ずあるはずで、その関連性を紐解いて行けば霊的に堕落したものを肉的な象徴として理解できるようになり、如何に霊的に成長していくかもそれを通して理解できるようになるはずだ。食道がただの医食同源に留まることなく、霊的なものにまで触れて入りこむまでになれば真の食道と言えるのではないだろうか。

2014年5月1日木曜日

今日の想い 728

どれほど肩肘張って負けん気を起こそうとも、わざわざ相手の土俵に上がって勝負を挑もうとする必要はないだろう。摂理ビジネスとして30年を歩んできながら、何も身に着かなかったという悲観があり、それが焦りとなって追い越せ追い付けとばかりにしきりに外の情報を手に入れようとし、負けんぞと肩を怒らせる。今まで献金として捧げるばかりで、新たな資本として成長発展の次なる段階のために投資できなかったという悲観もある。今まで出来なかったことをこれからは為してくれと発破をかけられ、私もまた自分からプッシュすべきだとは思っている。勿論そうなると外の情報を手に入れることも必要だし、焦りも見えて当然だろう。しかし外に向かうことばかりに意識を囚われ、培ってきた本質がありながらもそれを無視するなら、それは私達の財産を捨てこの世の道理に従う抜け殻の私達になってしまう。復帰されたカインの正道があるはずだ。この世にない天の香りをただよわせ、人々を魅了する店の在り方が必ずあるはずだ。いろんな店やレストランがあって、その洗練されたセンスに圧倒され私達の貧しさを知らされるけれども、そのセンスを取り入れることに躍起になる前にやるべきことがある。私達の中に培ったものが何なのかの認識だ。それがわかればセンスはそこから発火する。発火して燃えてイメージを作り出せる。外に触発されて真似事をするとしても、合わない環境に本質が追い遣られてしまってうまくいくはずがない。今までは、どんなに培われて来た本質、真の父母を通して天から戴いた本質を認識しようとしてもわからなかった。私達の霊的無知の一面がそこにある。祭祀集団の霊的血統を引き継いだ初代キリスト教会(エクレジア)。彼らが中心となってキリスト教世界の発展をもたらしたように、石工集団の霊的血統を引き継いだ金細工師が中心となってキリスト教世界発展の発展基盤をなし、それは爆発的経済発展の発火点を見出し点火したからそうなっている。そのように、私達は現代の発火点を見つける必要がある。今までの兄弟達の精誠を天に問うて、御父母様直系の正統カインであればこそその発火点を見つけることができる。御母様の拠点は環太平洋の三点に絞られている。韓国清平、ハワイ、そしてラスベガスだ。清平が霊的発火点であり、ハワイがエデンの園だと言われたように心魂的発火点であり、そうなればラスベガスは肉的経済的発火点となる。ラスベガスにはPIECE PALACEが建てられる。PIECE PALACEの中にレストランも建設される。このレストランを食口の思惑で建てることが大切なのではなくて、PIECE PALACEの中にあってその霊的指示を直接に受けられるレストラン摂理だから願いを受けて先ず建てることが重要であり、そこからあらゆる知恵が与えられてレストランは展開されるだろうし、新経済の発火点ともなる。