2017年12月13日水曜日

今日の想い 961

私達は神様をどのようにイメージしているのだろうか。私自身はどうだろうか。そしてそれは神様御自身のイメージとして正しいものだろうか。しかし本来神様の全体像をイメージで捉えることなどできるものだろうか。もちろん神様のイメージが視覚的であったり感覚的であったりするのは一面的だ、ということは理解できるが、私達が捉えている愛の神様、親なる神様というのも感覚を超えたイメージであって全体像とはいえない。神体験、というけれどもイメージしている愛の神様、親なる神様に触れたときを指しているのだろうし、子を奪われた親としての悲しみや孤独に触れたときもそうかも知れないが、どちらかというと力弱き神様、力弱い者達に寄り添う神様というイメージは私達の神観として付いてまわる。だから御母様が権威を持ち出した時に違和感を覚えるのだろうし、御母様と言いながらも寄り添ってくれる神様を求めている。しかし世界復帰は強力なる神様でこそ為せるだろうし、摂理の一角を担っていると自負するなら子として相続した権威を持ち出さなければ一歩も進まない。御父様が身内の兄弟を殴ってでも祝福を受けさせろと言っておられたのは冗談ではなく権威を本気で持ち出せという事だとも思えるがどうなんだろうか。権威主義をひけらかすのはどうかとは思うが、権威がなければいつも良い話をするオジサンでやり過ごされてしまって摂理は進まない。ジューイッシュにはユダヤの神様がいてクリスチャンにはキリスト教の神様がおられ、イスラム教徒にはアラーの神様がおられる。おられるという意味は信奉しているという意味だが、それぞれのイメージがあり、それぞれの特徴がある。結局は一なる神様であり私達が信じる神様と同じだというのは正しいのかも知れないが、同じならイメージも同じかというと実は大きく異なっている。少なくとも権威ある神様となるとユダヤの神エホバ神を信奉しているジューイッシュは権威、力の神であって、それ故にどこか傲慢な態度であったり物言いがそんな風で周囲からは嫌われがちだ。しかし彼等は事実力を持っている、というより権威の神を見ようとし体現しようとしている。先天時代の総括は御父様が再臨主、キリスト使命の完成を為された上で、新たな後天時代の出発、新しい時代霊の産出が為され、人類目標がその時代霊によって与えられるということだ。大宇宙の視点に立てばアダムとエバは新しい時代霊の出発だった。人類という実体を持つ時代の時代霊の出発だった。そして後天時代の出発は祝福家庭という実体を持つ新たな時代霊の出発だ。私達は真の父母様を新しくも真なるアダムエバとし、究極的存在を天の父母様と呼ぶ新生人類だ。全ての環境はこの新生人類の為に存在し、そして新生人類が主管していく。しかし忘れてはならないのは新生人類は公益人間の集まりであって、為に生きることを主義とし自己中心に走ることはない。私達祝福家庭を通して天の父母様はその権威を現し愛を現していかれる。私達のイメージで雁字搦めになっている神観が御母様を受け入れられないのであり、この世を主管し新たな世を創り出すほどの権威と力を相続できていない。すなわち後天時代の力を母体から得る霊的へその緒が絡まるか詰まっていて霊力を受け取れないでいる。さらに言えば胎児は頭を下にしているのであり、後天時代の出発は論理という頭が先導するのではなく生殖器が思考し生殖器周りの丹田が先導する。偽りの良心の声は頭から発せられたが良心革命されることで真の良心(神)の声は丹田から発せられる。

2017年12月4日月曜日

今日の想い 960

私は御母様に従いますと言いながら、先天時代の意識を惰性的に持ち続けているのであればそれは従ったことにはならない。御父様から御母様に、口にする名前を挿げ替えただけで何も変わってはいない。後天時代に入りながら目が覚めないまま同じ生活に没頭している。御母様、御母様と口にしながら絶対信仰しているような気分でいる。御父母様によって重生したなら、真の血統に繋がった霊的証しを立てて、祝福を受けていない他との明らかな位相の違いを自覚もし納得もさせなければ祝福を地に流したのと変わりはないだろう。自己満足的信仰で生涯を終えて本当に万万歳となるだろうか。実は希望は思いもかけない、いや私達からすれば顔をしかめるような者達からもたらされる。戦争が結果的には大きく近代文明をもたらしたように、破壊して御破算に願い出ることで新たな枠組み、新たな仕組みが組み立てられる。今の世界経済はオフショアに翻弄されている。国家間の貿易や為替はオフショアによって右往左往している。世界経済とオフショア金融がその位置を逆にし、国家枠を飛び出した税金逃れの思惑達が跋扈している。味を占めた思惑達は国を生かすでもなく殺すでもなく、オフショアという自由天地で思いのままだ。教会の世界復帰への道筋や復帰自体への認識が曖昧なままでも、それでも神の救援摂理は私達の認識の及ばないところで着実に準備され進められている。私達は一方で宗教世界の中心的役割を果たしてきたが、またその一方で事業拡大を果たすべく様々なビジネス分野に足を踏み入れてきた。様々な国にわたってはいるがそれぞれの国で首は掴まれたままだ。税や法で主管され国に奉仕している。私達が本当に摂理に適った事業を推し進めるためには、オフショアとの繋がりを見出し、入り込み、その莫大な流れの方向性を摂理に適って変えるほどであるべきだ。御母様は、全ての霊と肉を産み育む全ての母なる存在の代表であり、中心であられる実体だ。そういう認識で御母様に対さなけれ御母様に侍り願いに応えることはできない。逆に言えば未だに独生女かどうかの段階に止まっているが、あらゆる新しいものの産出は御母様が為されておられると捉えるべきだ。そういう認識でこそ私達は世界を動かせる。オフショアを産みだし育む御母様の力の存在があり、一つとしての世界国家に向かう胎動を御母様御自身が味わっておられる。その同じ高次の霊的基準、霊的波長に合わせることのできる祈祷に始まって生活意識を持とうとしているかどうか。先天と同じ生活基準、生活意識のままでいながら御母様に侍っているとは恥ずかしくていえないと思うべきだ。御母様に侍りながら生活苦や貧乏のままでいるはずがない。祈祷しているのにと言うなら、先ずその旧態依然の意識と言葉の染み付いた祈祷を封印すべきだ。後天時代の祈祷は先天時代の祈祷とは180度異なっている。

2017年11月28日火曜日

今日の想い 959

利己と利他は相反するものかどうか。私達は往々に善と悪、公と私、というふうに分けたがるし、一方でなければ一方だという観念に捕らわれている。その最たるものが神かサタンか、神側なのかサタン側なのかというものだ。原理に照らせ合わせればその目的性、方向性によるということだろうが、どういう立ち位置で見るかによって異なってくるので本来一概には言えなくなる。更に私達には中心性という言葉があるように、中心からくる判断を絶対的なものだと鵜呑みにする。中心からくる判断は善なる公的判断であり自分の思うところの判断は悪なる私的判断だと、これまた一方でなければ一方だという観念が基礎に置かれている。この二者択一は後天時代に於いても内的基礎足り得るのかどうか。先ずはっきりすべきことは利己と利己主義(自己中心)を混同してはならないことだ。利己は良しとされても利己主義となると話が異なる。では利他を考えた時に利他主義(為に生きる)は私達が立てるべき主義だけれども、利己を完全否定してしまえば私という存在を否定しろと言われているに等しい。御父様のOXの話は良くできていて、Oの中にいくらでもXは入るというのは為に生きる位置のOの大きさで利己欲求に応えるものはそれ相応に満たされるという話だ。自己中心であることは悪だけれども利己を否定するのではなく、それ相応に取り分を得ることを御父様は否定しておられない。幹部がマンションをいくら持っていようがそれをどうこう言うのは共産主義者であって、それほどの公的位置であり天が認めているからそれ相応の持ち分を得ていると捉えるべきだろう。私達がこの世に影響を与えるほどの外的力が持てないのは外的に与えるもののない貧乏臭さが滲み出ているからだ。脱北者が南でなかなかうまくいかず政府の生活保護を受けざるを得ないのは、自分で考え自分で稼ぐという意味が北の体制の中で生きてきてわからないからだ。食口、特に一世がこの世でうまく渡り合えないのも、教会メンタリティーを超えることができず自己成長の責任を委ねてしまって引き取らなかったからだ。北の住人のメンタリティーと私達のそれとは非常に似ている。

2017年11月24日金曜日

今日の想い 958

定かではないがみ言葉の中に慰安祝福の言葉が出てきたのは「慰安祝福をこれからはしない」という打ち止めの時に語られたみ言葉として表されたときで、それまでみ言葉として語られていなくても慰安祝福が許されていたことは事実としてあったことになる。しかし打ち止めの後にも相対を亡くした者達が願えば許されたことも事実であり、その件に関しても敢えてみ言葉として表されたわけではない。捉えようによっては理想相対は一人だといいながら一方で妥協しているかのような対処にみえる。それをおかしいと思うかどうか。おかしいと思うのは当然だろう。おかしいと思ってもその事実を先ず受け入れることはできる。しかしみ言葉を戒めとして捉えている以上、受け入れる余地はまったくない。祝福にしろ理想相対にしろ戒律概念からきた言葉ではなく御父様の赦しであり恩恵のみ言葉だという認識は極めて大切だろう。心情は教条的信仰を超えたところにあると私は信じているし、規律に反しているから心情とは程遠い、とは思わない。不倫の末の奪い婚だと矢面にされた御方も、信仰を超えた愛に生きることを選ばれたと取ることもできる。心情を求めるが故の決断かどうかは本人以外わからないにしても、誰もが怖気づくであろう非難の嵐に晒される立場を敢えて選ばれた覚悟は否定できないし、原理的によくないからという理由で自分は裁けても人を裁くことなどできるはずがない。私は私なりに受容している。耳にしたときはショックでも、その直後から理解しようとする意志を持ち続けている。しかしそれでも、子女様がそれでよしとされるなら私も同じ行動をとっても良しとされる、とは決してならない。私には肉の親がいて、霊の親がいて、そして魂の親が存在している。堕落していなければ霊から肉体そして魂(霊肉一体圏)となるのだが、堕落しているから肉から霊、そして霊を中心とした霊肉一体圏の魂となる。霊の親は明らかに御父母様だが肉の親ではないし魂の親とも異なっている。私は霊の親を出発点として霊の相対を肉の相対を通して与えられたのであり、共に歩みながら魂の相対とする過程を通して霊の相対であることを確認し、理想をさらに理想たらしめている。理想相対という概念は愛を否定してしまえば存在しないし、愛は霊を否定してしまえば存在しない言葉だ。理想相対を追求し、理想家庭を追求するなら形に捕らわれた相対や家庭をこえなければならない場合もあり得るかもしれない。理想家庭を追求するために家庭が壊れざるを得なかった、という言葉は、殆んどが言い訳として使う者もいる一方で、犠牲としてそなえた言葉とする者もいる。事実御父様は真の家庭を築くまでに家庭は壊れている。さらに壊れた後の再祝福を受けた食口はいくらでもいる。冒頭に触れた慰安祝福だが、この慰安という言葉が引っ掛かった。慰安という言葉から今の私に連想されるのは先ず慰安婦だ。しかし慰安婦論議以前にすでに慰安祝福はあり、後に出てきた慰安婦に同じ慰安という言葉を宛がえられているのは決して偶然ではないと思っている。性文化の流れはフリーセックスから付き合っている相手とのみの関係となり、それは一対一の関係であり誰彼構わずのフリーセックスとも幾分異なるが一生涯契りを交わした夫婦のみという性とも異なる。人が一人でいるのはよくないという聖書の言葉から、人が一人でいるのは無理があるとする地上的現実的に捉える性文化だ。慰安祝福は人が一人でいるのはよくないという立場なのか、それとも無理があるという立場なのかどちらだろうか。慰安婦は戦時の兵士達の特別な状況下に於いて、無理があると捉える者達の妥協措置だ。慰安婦という呼称は別として、ある兵士達(すべての兵士とはいえない)にとって彼女等は凌辱の対象ではなく安らぎの存在だった。それを決して善だと言うつもりもないが、敢えて口に出して(公の場で)悪だと宣言してしまえば、なら慰安祝福はどうかという話になる。戦時下の兵士達の状況を今の道徳的観念を宛がえてどうこう言うことなど普通はできないのだが、死を突き付けられた者達と生死の意味を真剣に捉えようとする信仰者は霊的に同じ問いを与えられていて、慰安祝福を受け入れるかどうかを問うなら慰安婦を受け入れるかどうかも問わねばならない。慰安婦問題は道徳感情をカードにした極めて政治的問題になっているが、祝福に対する私達の曖昧にしている部分が形になって問題を起こしていると捉えるべきだ。曖昧にしている部分は決して戒めで捉えるみ言葉から解決されるものではない。

2017年10月31日火曜日

今日の想い 957

私達の信仰の多くの部分は教条的な縛りにかけられている。だから教条主義に立ちやすい。すべきこととしてはならないことが思考や感情の基礎として魂に存在している。絶対信仰と言われれば当然、戒めが自分だけでなく他に対しても信仰の判断材料として宛がわれてしまう。もちろん教条的なものは必要だ。しかしそれが勝利された御父母様から戴いた重要な部分ではなく、それを超えた赦しこそが勝利された御父母様の権威であることを忘れている。私達祝福家庭の最も誇るべきことは御父母様をいただいているということだが、その中心的意味は私達には赦しがあるということに他ならない。原理もみ言葉も勿論大切で重要な御父母様をいただいていることの意味だが、祝福を考えてみたとき、祝福は許しがあってこそ成り立つのであって、祝福と許しは一体不可分、表と裏の関係であり、祝福家庭だと言える背後にはそれ相応の赦しが与えられている。お互いがそれぞれに間違っているとの非難応酬も必要かも知れない。御母様への疑問も生じて当然だろう。それでも御母様は御母様だ。赦しは御父様によってであって御母様は関係ないと誰が言えるだろうか。そして誰が赦しを与えられた身でありながら非難することができるだろうか。堕落人間であること、あるいはあったことを忘れている。祝福の背後のとてつもない赦し、天宙的赦しを与えられた身であることを忘れている。絶対信仰は教条的な意味で捉えがちだが絶対的な赦しがなければ絶対信仰という言葉は意味をなさない。訓読を絶やさなければ絶対信仰と言えるのか。間違いを犯さなければ絶対信仰と言えるのか。十一献金をしていれば絶対信仰と言えるのか。本来人間に絶対などあり得ない。それでも絶対信仰、絶対愛、絶対服従と言葉にされたのは絶対的な赦しが与えられるからであって、不信したり愛せなかったりの連続であっても絶対的赦しが与えられるから信仰は繋がり愛は継続する。

2017年9月13日水曜日

今日の想い 956

天使は人間に奉仕する存在だと原理によって認識しているけれども、天使に限らずあらゆる存在は為に生きる存在であり奉仕する存在だろう。人間でさえもそうだ。他の為に生き神様の為に生きるべきなら人間も天使も同じだ。人間は死んだらどうなるか、霊界の存在になる。霊界の存在=天使存在だ。霊界で悪霊であれ善霊であれ、はたまた聖霊であっても天使存在だ。祝福家庭は霊界で天使達にかしずかれる等という稚拙なイメージは早々に砕いて、為に生きる私になることに忙しくあるべきだ。為に生きることが喜びの私になれない限り霊界生活は苦しいものとなる。霊界は地上以上に他の為に生きることに忙しい。地上で学ぶ愛、それは愛される愛ではなく愛する愛であって、犠牲的立場を如何に感謝できる自分となり喜びとまでするか、という愛だ。犠牲的愛を学んでこそ霊界で生きる。霊界報告の偉人達の証しを読めば判で押したように感嘆詞の羅列になっていて白々しさを覚えるが、いざ地上で表現しようと思えばそうならざるを得ないのであって、地上で表現できないほど深い世界、心情世界が霊界だと捉えるべきだ。奉仕というと如何にも気持ちの良さが伴う奉仕活動のように思えるけれども、それは肉体奉仕による魂の慰めに止まってしまうのであり、み言葉のいう奉仕、犠牲精神は魂そのものの奉仕をいっている。それは決して気持ちの良いものだけではない。苦しみが伴い悲しみが伴い時には魂の引き裂かれるのも甘受する奉仕だ。今をいうならこの混乱期の中で食口達は悩み苦しんでいる。清々しく御母様に従っている食口がいるのであれば地球のどこであっても訪ねたい。訪ねてその理解と霊的在り様に接したい。自分には多くの疑問があり蟠りがあるのも認めるが、だからといって御母様に背を向けようとは思わない。たとえ私自身を御母様が否定されたとしても、それでも御母様は私の御母様だ。ある子女様は御母様に従うと地獄に行くとまで断言されたが、たとえ地獄に突き落とされるとしても御母様に背を向けることは私にはできない。魂の引き裂かれるのを味わいながらも、これもまた犠牲精神であり天への奉仕だろう。心情が私の中で育まれている。心情という言葉の本当の意味を受け取ろうとしているのであり、それでこそ心情を相続できるはずだ。貴方は認知症になった母を忌み嫌い捨てますか。誰もがそれは否定するでしょう。では傲慢な母なら捨てられますか。或いは無知な母なら背を向けますか。私の母がこんな子を産むんじゃなかったと口にして地獄の心情を味わうとしても、それでも私は母の子であり母を捨てることなどあり得ない。

2017年9月12日火曜日

今日の想い 955

どうしてここまで日本国民は国益を否定する民になってしまったか。本人にその自覚はないにしても先導するマスコミに煽られたまま、その是非を自らに問いかけるかけることもなく頷き同調する。それがそのまま国民として守られている日本国を否定してしまっている。確かに先の大戦はあまりにも犠牲が大きかった。その時代を苛酷に生き抜いた世代の戦争への嫌悪感が半端なものではないことは理解できる。犠牲の大きさ故にそれは軍への嫌悪にもなり核も含む武器への嫌悪にもなっている。どうしても嫌悪という感情から抜け出せないでいる。そのトラウマとも言える感情の反動から国体を否定してかかる。その感情をマスコミを通し、教育を通して受け、引きずっている。国を失おうとも自分が生き延びれればそれでよしとさえ思っている。大半がそう思ってしまえば御父様が触れられたように日本の5分割は当然の成り行きだろう。日本人はこの感情をどうにも超えられないのだろうか。感情による奴隷状態のまま、霊的見地には立てないのだろうか。ミサイルが頭上を飛び交う、目と鼻の先でたとえ実験であれ核が爆発する、それらを降ってわいたような災難だと思っているけれども、今の韓半島情勢、東アジア情勢は負の感情を引きずる日本の状態が引き寄せた危機だという認識がない。槍を突き付けられた今こそ、日本人は先の大戦による負の感情を越えなければならない。危機は一方でチャンスだと今こそ断言できるし、サタンが現れれば必ずその背後に神が顔を覗かせてどちらにつくのか伺っている。日本は今こそ立ちあがってほしい。裸のエバではなく力ある母となってほしい。

2017年8月15日火曜日

今日の想い 954 (洗礼ヨハネの過ちとして学ぶべきは聖霊実体に対して)

正しいのか間違っているのかの判断を今の今差し出させようとすること自体が正しくない、ということに気付かない。正しいと思うから従うのか、間違っていると思うから批判するのか、それは私が見通せる、すなわち主管できる範囲内であればこそ道理が立つのであって、私の位相を超える霊的内容に関して私が判断できる道理はない。自分の中で正しいと思わせる霊的存在が立っているのか、はたまた間違っていると思わせる霊的存在が立っているのか、私という存在はそのどちらかの霊的存在に謂わば主管されているのであって、私の霊的位相をより高みにステップアップさせないかぎり主管されたままだ。確かに先天の信仰に留まったままでは混乱して当然だろう。今までの積み重ねてきた信仰生活は一体何だったのだろうと落胆してしまう。しかし確かなことは神様は存在し、神様の許可を得て神様に直接対せない私達を主管していた或る霊的存在も存在しているという事実だ。先天は神様の許可を得たその時代霊(大天使)によって導かれ統一食口の魂を揺さぶり先導してきた。それは御父様と一体となった時代霊であり御名前の龍明を鮮明に変えられてから御父様と共にあった。しかし後天時代は新たな時代霊が先導していく。そしてその時代霊は御母様と共にある。さらに言えばその時代霊は過去の天地創造以来の天地の歴史のどこにも存在されてはいない。御父様と一体であった時代霊はイエス様と一体であった同じ時代霊であることは想像できるけれども、御母様と一体である時代霊がどういう存在であるかは想像を遥かに超えている。御母様に屈服し従うことでこの時代霊を受け入れることになる。先天の時代霊の使命は御父様が宣言されたように完成完結完了された。その意味するところは新しい時代霊が新しく生まれ変わった人類の歩みを主管するということだ。その転換点もわからなければ先天後天時代の大きな流れの違いもわかってはいない。どれほど自分の判断が正しいと思い込んでも、たかだか数十年で跡形もなく灰になる身、何千年何万年という歴史の流れからすれば一瞬の光の存在が正しかろうが間違っていようが時代の潮流に抗うことは出来ない。大天使キリスト霊は2000年の潮流を主管してきた。御母様と一体である大天使は、名前を付けるとすれば一人娘霊であり独生女霊だ。御母様が地上存在であられる期間のみならず千年王国への人類の歩みを主管される。私達は洗礼ヨハネの過ちを繰り返してはならない。御母様、貴方は本当に神の願いを受けて立たれた一人娘ですかと、、。

2017年7月9日日曜日

今日の想い 953

真の父母の勝利圏が立った、という事がそのまま実体的天一国が立ったという事にはならないのは当然だ。しかしその勝利圏は相続された真の父母に繋がる全体に及んでいるのであり、地域を超え国を超え、世代を超え時代を超えていく経過を辿りながら実体的天一国として可視できるものとして形作られていく。よって勝利したのなら勝利した結果を今見たい、あるいは見せろと言うのは実に短絡的であり見物人の域を過ぎない。創造原理が立って宇宙が生成されるまで莫大な精誠が投入されなければ先には進まない。時を進めること自体に莫大な精誠が投入されている。真の父母の勝利圏がたてば自ずと実体的天一国は立つものと思うのは勝利圏を相続した者の思考ではない。本来なら相続した者達(祝福家庭達)が責任をもって立てていくべきなのに、しかしあまりにも子供子供していて責任を取らないものだから、父亡き後も母が責任を持ち先頭に立って実体的天一国への道筋を開拓されている。今回のMSGの大会への御母様の覚悟はいかばかりだろうか。ブッシュ時代がアメリカ中心摂理の大きな分水嶺だったが、ブッシュはそれに応えられなかった。その時点で全ての基台の上に立ったアメリカ摂理は失敗した。その時の御父様の落胆がどれほど大きかったことか。よって本来ならアメリカを捨て、アメリカ中心に動いている世界基盤を捨て、真の父母とそれに繋がる者達だけで天一国を立てることもできた。「平和の主人、血統の主人」にはそれらしいことも書いてある。しかし人類の真の父母でありながら簡単に人類を捨てることなどあり得ないし望まれない。それ故に御母様が御父様の願いを引き継がれて立っておられる。このことを理解しなければ御母様のこれまでの発言や宣言や行動は理解できないし、今回のMSGへの御母様の覚悟も理解できない。さらに言えば全人類が真の父母を知り認識しなければ真の父母だと叫んで終わることにもなりかねないのであって、MSGで終わると思うべきではなく第二のヤンキースタジアムも第二のワシントン大会もあり得るし、開拓し前進し続けなければ実体的天一国など夢のまた夢だ。御母様についていこうとすれば相当の決意と覚悟を要する。今回の大会はその私達の試金石となる重要な大会だ。そしてこれが新たなるアメリカ摂理の再出発だ。

2017年6月14日水曜日

今日の想い 952

「愛する」という言葉ほど抽象的に捉えている言葉はないかも知れない。み言葉の中に愛という言葉は山ほど見つけられるけれども、当然理解していると納得済みで素通りしている。しかしその理解がどれほど曖昧で掴みどころのないものか、自分に問えば問うほど愛の概念は手からすり抜けていく。使い古された愛の観念ではなく、真の愛の概念を受け取って欲しい故にあらゆるみ言葉を差し出されたと言っても過言ではないとさえ思っている。み言葉は愛の教科書であり地上生活は愛の訓練場だ。それぞれに愛の何たるかを受け取り、それを携えて霊界に生まれ天上生活が始まる。み言葉に一貫しているのは愛を受け取る教えではなく愛を与える教えであり、「愛する」という能動的愛であり為に生きる愛だ。しかし与える行為と同時に引き受けるものがあってそれは責任であり、責任の全うをして与えたことを認可される。むやみやたらにお菓子を配り歩くことで愛したことにはならない。献金し続けることそれ自体が天を愛することにはならないし、聖酒を飲ませることそれ自体が祝福の終結ではない。献金したことの教会に対する責任を取らなければ献金は流れていくのであり、聖酒を飲ませた相手に対する霊的生命の責任を取らなければサタンに奪われていく。自由に責任が伴うのは先ず愛する意識が最初にあって責任を引き受け、責任を引き受けるがゆえに自由という概念が生まれるのであって、最初に自由があるのではない。愛(神様)と自由(ルーシェル)、O(他体優先)とX(自体優先)の関係の中で人間(アダムとエバ)は自由を最初に選びX化(固体化)を早めてしまった。それゆえに人類は遥かな時を費やして蕩減という愛(神様)への初期化責任を引き受けてきた。蕩減を研究すれば愛の意味を論理的には捉えることができるかも知れないが、その概念は責任を取る者しか学べない。今まで摂理だといわれて多くのことに手を出してきた。しかし失敗したことに対して誰が責任を取っただろうか。失敗する以前に手を出すことへの責任を引き取っていないのだから成功するはずがない。だから離れた食口からお花畑だと揶揄されてしまう。揶揄されて当然だろう。責任者達の責任もさることながら現場で歩む食口達ですら責任感情を持ち合わせていない。要するに天を愛すると言い、為に生きると言い、中心の願いに応えると言いながら責任の所在を有耶無耶にしてきた結果が今の状況だ。前にも言ったように「愛する」という言葉と「責任を取る」という言葉は同義語として捉え、責任感情も持たずに事に及べば全て流れ去る。こういう事業をしたい、こういう店を開きたい。それはそれでいいだろう。しかし資金をどうするのか。持ち合わせている所から出させて使う、そこで既に責任の所在が失せている。これからは何らかの担保が必要であり担保がなければ指の一本でもかけるべきだ。そうでもしなければ全て失せてしまうし、食口でありながら愛することの意味も分からず霊界で彷徨うことになる。

2017年6月13日火曜日

今日の想い 951(大海に生きる)

「教会に通っている自分に安心しますか。御写真の前で祈祷している自分に安心しますか。献金しているという自分に安心しますか。訓読している自分に安心しますか。安心することで満足しますか。アダムエバ問題も、公金問題も、犯していないという自分だから安心しますか。」安堵に胡坐をかいて生きるのが御父母様の願いであり私の良心の願いだろうか。責任者たちは尻に火がついた状態だろう。何が起こってもおかしくない。責任者の誰もが、食口達が揺れに揺れていることを知っているし、いつ教会基盤が崩れてもおかしくない。内情は既に崩れていて責任者は張りぼてを維持するので精一杯かもしれない。責任者達の安堵も崩れ内的戦いの真っ只中だ。食口達に安心を売って教会に繋ぎ止めようと必死だ。確かに先天時代は不安をはらうために歩んでいたから安心を買うためにあらゆる摂理に付き従ってきた。清平摂理もそのひとつだ。天にすれば別の思い入れがあるのだが地の食口にすれば不安をはらい安心を得るためだった。天はそれを利用したとも言える。しかし御父様が聖和されて、御家庭で様々な言い分に立たれる子女様がおられ、御母様は御母様で驚天動地の宣言をされ、それに振り回される不安な私達は明らかにどこに安心があるかを手探りしている。しかし安心基盤が崩れることが摂理であり、安堵の大地の液状化、すなわち大地が大海になること自体が摂理だと未だに気付けない。後天時代を生きる真の食口は大地に生きるのではなく先ず大海に生きる必要がある。大海の大波に揺れ続ける状況の中で自分という船を良心という羅針盤で導いていく。新たな大地は必ず出現する。それは決して安心を求める先にあるのではなく、良心の願いに生きることを突き詰めた先に出現する。食口達は全人類の代表であり摂理の先端を歩んでいる。私達が大海を航海し新生大地を踏みしめてこそこの世界の平安も訪れるのであって、私達は人類の霊的導き手であり霊的指導者であることを忘れてはならない。自分のために、すなわち自分の安心と安堵のために、不安や恐怖心を避けるためにこの道を歩んでいるのではない。

2017年6月10日土曜日

今日の想い 950

人間は情報に慣れてしまうし飽きてしまう。ミサイルが一つ飛んだだけでも大騒ぎしていたのに、何度も何度も飛んでいればまたかと思うだけで他何とも思わない。自分の五感を通して受け取る近辺は飛ぼうが飛ぶまいが何の影響もない。社会問題であれ経済問題であれ情報として流れる全ては慣れるし飽きる。情報は結局外のことであって、内のことでもなければ外と内を分け外から内へのフィルターでもある肉体のことでもない。教会のいろんな問題をどう捉えるか。多くの食口は問題とされる情報を受けても慣れてきたし飽きてしまっている。問題を言い訳にして抱えてきた内面の恨みつらみを吐き出し、自分の負の部分を相対的に平均値に戻そうと情報を漁る輩もいるが、しかし多くの食口にとって問題とされる情報を受けて自分に負として働かせる訳でもなければ敢えて正として働かせる訳でもない。ある意味他人事で済ませて慣れ飽きている。情報の霊的意味を捉えなければ皆と同じように流れに流され、死に向かう豚の群れの突進状態だ。独生女という言葉に慣れようとしている。独生女をとやかく言う輩にも飽きている。それは自分の内面の変化を嫌う感覚から来ているものかもしれない。小難しい説明を理解するのも面倒くさいし、今まで保持していた信仰観で実際今日を生き明日を生きようとしている。しかしそれは惰性であるし霊の成長を止めてもいる。今までの(先天の)信仰観で生き続けることはできるが、しかし願いを成就するには至らない。いつもやりますやりますと言いながら何もやれなかった先天と同じ流れで流されるだけだ。実りを本当に手にしたいと思うなら御母様に繋がる信仰観を用意すべきだ。御母様を否定しない者達もその殆どは先天の信仰観で生き、表面的に受け入れただけで未だその本質を受け入れてはいない。種は受け入れようとしているが乳を飲もうとはしていない。父がいて母がいて私がいるとは理解できるが私が一度生まれてしまえば母は必要なくミルクだけあればいいという話ではなく、母乳の必要性を理解した者が御母様の本質を受け入れる。

2017年6月5日月曜日

今日の想い 949

古代の人間は現代人が生きて地上生活をするのとは異なる生活空間に生きていた。外的な地上環境圏に埋没して生きるのではなく、内的な霊的環境圏をも生きていた。霊的環境圏の影響の方が遥かに強かった。古代人が現代にタイムスリップして現代人を把握しようとすれば、行動の背後の霊的影響を把握して存在の在り様を判断するのであり、現代人の知情意の在り様に対しては疎くて正しく把握できるとは思えない。怒ろうが泣こうがその人の感情に、あるいは知識や技術を持っていようがその人の思考に、古代人は現代人ほど反応することはない。そういったことに対しては無頓着といっていい。そこでなるほどと思えるのは、食口の中に意外とこの種に近い人間が多いことが伺える。食口はある意味本質的であるけれども知情意に於いては未成熟で疎い古代人ということだ。ここで言う霊的環境圏=善霊界ではないからそこは踏まえておかなければならない。タイムスリップした古代人は現代人が言葉を使うことに対して、或いは言葉を書くことに対して、他のどんな行動よりも目を見張る。言葉を使う事が古代人にとっては魔術として映り、それは白魔術でもあり方向性が狂えば黒魔術でもあり得、喉が霊的器官であり手が、とりわけ右手が霊的器官であることがよくわかる。感情の赴くままに言葉を発し、ある思考に固定したまま言葉を連ねるなら、それは悪神の思うまま悪神の手先となって黒魔術を施すことになる。天の血統圏に繋がろうとしている食口であれば、知情意の魂の原因である霊的内容を見定めて、自分の感情や思考、行動が何に起因するのか見届け、それが天的なものなのか堕落的なものかを見通してこそ正しく天の血統圏に繋がろうとしている。み言葉がいかに私の魂の活動に生きているかが問われている。み言葉の力はこれは正しいとかあれは正しくない等の枷を嵌めてしまう教条的な戒め役割ではなく、魂の活動としてみ言葉が生きてこそ私達はみ言葉を受け入れ、み言葉が血となってその流れの輪郭として霊人体が表象される。溢れる疑問に対してあれこれ詮索する時間があるならみ言葉を耽読しみ言葉を諳んずべきだろう。感情や知識で御父母様の本質を捉えるのではなく、知情意の活動の背後、意識下でこそその本質的価値が伺える。簡単に言えば眠っている(死んでいる)時の私が御父母様の本質を捉えることができるのであって、起きている地上の私がどれほど知的感覚的に、あるいは感情として捉えても所詮イメージの枠を超えることはない。だから魂の領域を否定しろというのではなく、地上の知恵を通して求め続けろということであり、イメージを得たり壊したりしながら地上に於いて本質を捉えることができる、という信念こそが御母様に向かう信仰観だ。固定したイメージに執着しなければ起こりうるあらゆる事態に能動的に対処できる。すなわち本質の新たな側面を享受できる。御母様の宣言は本質を裏側から見る、あるいは内側から見るほどの画期的宣言であり、月の裏側を見るどころか宇宙全体を宇宙の外から見るほどの内容だ。これをはなから受け付けず完全否定してしまう訳にはいかない。

2017年6月4日日曜日

今日の想い 948

敢えて皆の前で、私はグループ派につきますと宣言される。かつてはサンクチュアリにつきますと宣言された御仁もおられた。公言されるのは皆の同意を誘い出し、皆が私に従って行動を起こすことを期待しての事だろうか。少なからず影響はある。食口が見上げる立場におられたその特権を、謙虚な言葉でもって行使しようとされる。立派な方達の信仰も、現場で心身を擦り減らして立てる信仰も、同じだと思われているから自身の処し方を敢えて公言されるのだろう。私にすればその言葉遣いが優しく謙虚であればあるほど、信仰者が陥る傲慢さを垣間見る。言葉で責められ棒切れで叩かれながら実績要求されてきた現場がどれほど過酷だったか、その実情を黙認し、ホームで神霊指導や実績の電話受けばかりしてきたお偉い方にはきっと理解できないだろう。罪というよりは自分の弱さを痛いほど思い知らされる。それこそ自分が何の価値もない存在だと追及につぐ追及で追いやられる。有難い天国の話で架空の人参をぶら下げられ地獄の底を這いずり回る。おそらくそんな醜悪な現場は経験されなかったのだろう。御父様に直接声もかけられ、公金問題もアダムエバ問題も他人事で、立派な祈祷を口にしても負債も白々しさも感じることはなく、皆の前に立つのも堂々としていてみ旨に向かう話しに淀みない。謙遜を装う自惚れ意識がなければ信仰集団の責任者にはなれない。その特異な信仰観が、本人はもちろんそう思ってはおられないが、混乱をさらなる混乱に陥れる。土より劣る身、穢れ果てし我は、原理が云々でもなく愛されたことへの云々でもない。地の底を這いずり回り息も絶え絶えになりながらそれでも生きる力を得ようとし、感謝できない愛されない暗闇に追い込まれながらそれでも感謝する力、それでも愛そうとする力を得ようとし、心情にこそ根っこがあることを思い知らされた信仰観だ。自分が理解した原理と食い違おうがそんなことでは怯まない。自分がイメージしている御父母様像、御家庭像と食い違おうがそれも良しとする。今の混乱の時こそカインがアベルを超えて勝利圏を立てる時だと待ち構えていた者達もいる。小奇麗なアベルの信仰観では今を超えられない。随分スマートに檀上で離教宣言しておられるが、お話を聞いて頷きもし慕ってもいた多くの食口達の混乱をどう責任持たれるのだろうか。中には夫婦の間で意見が異なってしまい、地上界霊界までも夫婦一体圏であるべきなのに離れざるを得ないという、もっとも尊ぶべき家庭の価値を宗教的権威で粉々に打ち砕いている現実をどう思われるのだろうか。本人がさっぱりすればそれで済むことだろうか。形あるものは崩れる。組織も崩れる。家庭連合になったのは教会が崩れたからだ。名前を変えた教会だと思い、教会に神様がいて教会あっての自分だと思うからどこの組織に神様はいるのかと渡り歩く。外に神様を求めるのではなく自分の中に神様を求めなければならない。良心を通して神様は働いておられる。もし良心に従って行動されたというなら、それ以上返す言葉は私の中にはない。

2017年5月30日火曜日

今日の想い 947 ( 韓国人と日本人 )

妻はいくらか興奮気味に韓国の問題を私に言う。普通の日本人なら誰もが感じていると思われる韓国の日本に対する言いがかり、慰安婦問題であったり日帝時代の圧政によるある事ない事であったりなのだが、そこに留まらず韓国人に対する歪んだ感情まで膨らまして口を尖らせるものだから落ち着かせるのに一苦労だ。どんなにあれが悪いこれが悪いと負の感情を募らせても何の解決にもならない。ますます韓国との溝を深めてしまう。日本人は日本の土壌と歴史の中で日本人的気質を備えている。韓国人は韓国の土壌と歴史の中で韓国人的気質を備えている。だから日本人的気質による良し悪しで韓国を評論してもそれに対して韓国人は納得しないし、その逆もその通りで韓国人的気質による良し悪しの判断で日本を評論しても日本人は納得しない。要するに気質という血に浸み込んだ魂の表象だから、魂という知情意のステージに留まる以上お互いの言い分がすれ違ったまま一つになることはない。魂から霊のステージに上ってこそ解決の道は見出せる。霊的無知、霊の認識のない者は人種間、民族間の問題は解決できない。心情主義に立つということが極めて重要になる。韓国人の御父様は他の韓国人と同じように日本を責められる。しかし韓国人を超えた御父様、心情主義に立たれる御父様を私達は認識している。だから御父様に従ったのであり韓国人の御父様としての言動に対しては、日本人として「御父様はそう言われますけど、、」と思って当然だろう。日本人妻達が日本の代表として韓国で慰安婦への謝罪、韓国に対する日本の無礼の謝罪をするのは私としては戴けない。ただ韓国人の日本に対する恨の想いの強さと、日本人の韓国へ投資投入した想いの強さを比較したら圧倒的に韓国に軍配が上がる。正しいとか正しくないとかじゃなくその感情の強さは天の心情を動かすに足る。悲惨な韓国を国として立たせる程に、これほどに投入し愛したのにという想いが一方を勝るなら、歴史は別のベクトルへと動いていたかも知れない。韓国人はよく祈る。店でも食事を前にして長々と祈祷する韓国人をよく見かける。それも涙まで流して祈っている。日本人はその感覚がわからない。たかがランチ、それも飽食の国アメリカでそれ程に想いを込める感覚がわからない。そう、彼等は言葉に想いを込めている。韓国人の従業員は私にすれば些細な事を、滔々とまくし立ててどれ程心が傷付いたかを訴える。彼にしても最初は他愛もない疑問を、言葉を並べるうちに全魂を投入し始める。それがそのまま心情文化だとは思わないが、何かにつけ熱いのが韓国人であり韓国語にも表れている。正しい者が勝つと思っているけれども、正しいか否かは歴史が決めるのであって、正しいと思えるものより恨の強いもの、想いの強いものが勝つ。

2017年5月22日月曜日

今日の想い 946

信じるということとイメージするということは対になっているけれども、信じるのではなく霊界を実感しながら、そしてイメージではなく霊界( 心情 )生活するということが重要だ。霊界が心情世界であるのは食口誰もが知っていながら、心情ではなくイメージで霊界認識をしようとしているところに問題がある。イメージを膨らました霊界ではなく心情を追求してこそ霊的に生きる。 おそらく天国は楽しくて面白く、地獄は苦しくて辛いという実に単純なイメージとして分けられ信じているようだけれども、そんなはずのないことはわかりきっている。では地上天国が完成すれば楽しくて面白いことだけで、苦しくて辛いことなどないのかという質問を浴びせられて窮することになる。楽しさや嬉しさは内的に受身で終えられるのに対して、苦しさや辛さは受身で終えるには耐えられない。何らかの努力や働きかけをせざるを得ない。しかしそれを通して愛の力の何かを知るようになる。楽しさや面白さだけの人生で愛の力の尊さを知り、愛を与える存在に対しての深い感謝の想いなど生まれようもない。堕落性本性は困難や責任から逃げようとする性稟であり愛の力とは真反対のサタンの力だ。苦しさや辛さを力に変えて愛する訓練を通して、楽しさや嬉しさを当然のように受けていたが受ける背後に苦しさや辛さをものともしない愛そうとする存在、与えたいという存在を知るようになる。愛する訓練を受けないものは感謝する想いなどわかない。常日頃感謝の言葉も口にし、感謝もしているように思っているけれでも、そんなのは本当の感謝ではない。どちらかといえば苦しさ辛さ、困難や責任から逃れることができたことへの安堵に近い。本当の感謝は愛の尊さを知った者しかできないのであり、愛の尊さを知るためには愛する訓練を受けなければならないのであり、愛の訓練を受ける覚悟は決して楽しさや面白さからは生まれない。苦しく辛い人生の只中で、愛する覚悟をするのかそれとも逃げるのか、逃げて天国にいこうとするけれども当然そこには愛はない。

2017年5月16日火曜日

今日の想い 945

揺れ動く中で暫定的世界はどこに向かうだろうか。アメリカが民主的世界制覇を否定したから世界の流れのベクトルは方向を変えていく。今世界は乱気流状態だ。民主と共産の二大勢力が台頭してきたが、民主国家群がアベル、共産国家群がカインだと単純には言えない状態になっている。個人の中の戦いとして心と体の戦いが続いてきたが、それでも心が主体であり体が対象であることが人格を備える個人の証だった。信仰を持つ者は特にそうで、自分なりのみ言葉の核が心の大きな部分として信仰主体の人格を備えてきた。しかしその心の中に疑いというバイラスが侵入している。ちょうどアメリカにアメリカファーストというバイラスが侵入したようにだ。その霊的バイラスは疑いを解こうとして問えば問うほど感染していく。そうして論理の底なし沼に落ち込んでいく。人間は魂の活動、すなわち知情意の活動を続ける存在だけれども、心情は知情意を超えたところにあり魂の主体として見いだせることを学んでこそ信仰生活を続けてきた意味がある。御父様がその存在を私達に教えたかったのは心情であり心情を捉えることが神様を捉えることで、神の血統も心情を相続した者が血統圏に繋がれた者として認められる。決して祝福を受けたという事実だけで繋がれる訳でも御父母様の親族に加わることでもない。もちろん祝福を受けることでその道筋が備えられるというのは確かにそうだが祝福=血統圏ではない。ではこの乱気流状態で主体対象がはっきりしておらず、善神の業なのか悪神なのかわからない状況でアップアップしている状態に神様はどう働いておられるのだろうか。受け取る心情とはどういう心情だろうか。今までその事を曖昧にしたまま、神様、すなわち心情の存在を御父母様や祈りの対象に置くという、それは私の中におられる神様を見出せず取り敢えず外に備えるという長生的な神様認識であり、後天時代 は完成的認識が必要であって長生的認識のままであろうとすれば時代にそぐわない。御父様が良心革命と言われ神様を良心の中に見出す、すなわち私の中に見出すこと、私が心情を備えることを教えて下さったことがどれほど大きな祝福だろうか。このように世界が揺れ動き、食口に於いては信仰の主体においていたものが揺れ動き、そうなると主体存在を私の中に見出した者、良心の中に見出した者は揺れ動かない。外的には揺れ動いているようでも動かない。主体を外に置いている者から見る御母様と、主体を内に見出した者が内から見る御母様とは全く異なる。それは霊的なる位相を捉えれられるかどうかということでもある。

2017年5月1日月曜日

今日の想い 944

揺れ動いている今だからこそ考えようによってはおもしろいし、私達が今こそ入り込める隙間が揺れ動く中にある。必ずある。アメリカと北が一触即発状態を演出している。北の揺れが大きいのかアメリカの揺れが大きいのか、北は北で脅しアメリカはアメリカで脅しながらそれぞれの暫定的国家信念を通そうとしているけれども、外面は大国アメリカだが、アメリカの民主主義なる信念は北を超えるほどの矛盾が露呈してきて相当に揺れ動いている。北の横暴が世界を振り回しているが、彼らの民主国家を超える強みというのは決して核ミサイルに代表される軍事力ではなくその一体化にある。たとえそれが恐怖政治によるものだとしてもだ。暫定的ではあってもアメリカの信念を凌駕する信念に支えられている。アメリカがアメリカファーストを声高に口にした時点でアメリカは完全に民主的世界制覇の信念を捨ててしまったが、北による信念は未だ生きている。いやその拳をさらに高々と上げている。しかしその一体化がどれほど余裕のない固体化したものでどれほどもろいかもまた確かだ。どれほど抑え込んでも自由を求める人間の本性は否定できず更に強くなる。もし衝突する事態になれば抑え込まれていた自由への衝動が爆発するときであり、民主世界が想像しているような金体制への怒りとして体制破壊に向かうのではなく、先ず核爆弾の爆発という彼らの自由渇望の恨みの爆発となって世界に降りかかる。核爆弾の成功は統治者の願いを超えて北の民衆の悲願であり、金体制がそれを捨て去る選択肢はそれ故にない。枷を外された北の民衆が難民となって押し寄せるという民主側の予測は、彼等の信念と積み重ねられた恨みを計算にいれた上での予測ではなく、内的に自由な者が外的な拘束から抜け出した行動しか視野に入れていない。彼等にとって中心軸は自分を超えて将軍でありおそらく私達食口以上に中心を慕い忠誠を誓っている。実は食口の献身による内的状態と北の民衆の内的状態は結構似ていて、献身制度がなくなっても生活に困窮したり自分の意見が持てなかったりと社会との結構な格差が生じ対等なるコミュニケーションが持てないでいるのは、内的な自由を預けることで自己責任という責任感情をも差し出したことに因っている。御父母様を否定することは私自身を否定することであるように、金王朝を否定することが彼ら自身の否定になる。しかし全ては揺れ動いている。北もその体制が歪を起こし揺れ始めている。もちろん食口も御母様の爆弾発言とそれを受け止める戦いによって揺れている。揺れて生じる隙間に何が入り込もうとしているのか、知恵ある者はそれを見通す。そして意志ある者はそこに入り込む。

2017年4月29日土曜日

今日の想い 943

筋を通す、という言葉は信念を貫き通すということであり、別にやくざでなくとも、国であれ会社であれ或いは宗教であっても組織にはその組織としての信念が生きているから成立し、組織生命が活動していく。それは個人においても同じで、自分の中に揺れる自分を見る、即ち様々な自分が存在していて完全にひとつになってはいないが、それでも暫定的な統一個人として筋を立て、筋を通して生きている。しかし今はすべてが揺れる時だ。地上が地震で揺れるように霊的に揺れ動いている。それは分裂させるほど強く揺れていて国において揺れ組織において揺れ家庭において揺れ、個人において揺れている。統一すべき中心が不在か、はたまた影が薄く見えなくなっている。地球の中心軸である地軸が揺れ動き移動している。安定していたものが動くから地層プレート間のズレが生じ地震が起こる。地震や異常気象が起こるのは地球の地軸を決める関係にある太陽と月からの影響だ。月が主体的に関わっていって新しい地軸の位置が決定される。陰暦が主体だと言われた御父様の言葉通りだ。月と陰暦と、そして御母様は切っても切れない関連性がある。御母様の主体的発言と姿勢を通して私達の内的霊的地軸は決定される。新しい内的霊的地軸と地球の地軸移動とは性相と形状の関係でリンクしている。私達の新たな信仰、信念は新しい内的霊的地軸によらなければ立たないし、そこにおいて筋を通す必要がある。御父様に侍ることはみ言葉を自分の中に立てようとすることであったのに対し、御母様に侍るのは確実にその基盤の上で実績を供えるという環境創造にある。食口は実績を備えてこその食口だと当然のように思っておられる。先天時代のように、御父様御父様と甘えていれば振り向いて下さる御母様ではないということだ。それほどに冷たく厳しくあってこそ私達の暫定的中心軸から後天を生きる本当の内的霊的中心軸になれる。暫定的中心に留まりたくても留まれないから揺れに揺れて当然の私達だ。揺れていれば筋を通そうにも通せない。今の教会はどんなに説明を加えて筋を通そうにも無理があって、揺れが更なる揺れを引き起こすことになる。御母様に真摯に対そうとするならば、論理をもって自分を納得させようとするのではなく環境創造すべきであり、その実践的自分を創造するツールとしてみ言葉に対するべきだ。自己満足で終えるなら、訓読も修練会も、はたまた摂理だと思い込んで没頭している歩みも意味がない。祝福家庭だとおだてられ、食口は霊界で先祖に讃えられ霊人体が輝いている等といわれて誇らしい思いがわくとしても、それは只の自己満足に過ぎない。御父母様との霊的因縁は満足した時点で既に終わっている。そんなことよりは実情を憂いて、環境創造できる実績を備えるために悩みぬき奔走すべきだ。

2017年4月5日水曜日

今日の想い 942

今年は桜が咲かない。毎年、ドカ雪で外に出ることもままならない日が一度か二度はあるはずが、今年は雪がちらつくことすら少なく、二月という冬真っ只中で70度近い日が数日続いたりして秋からそのまま春になったような感じだ。その気象異常のせいなのか、毎年満開になる見事なアパートの桜が、今年は半分咲いてそのまま枯れ落ちてしまった。今までそんなことは一度もなかった。タイダルベイスンも、ケントウッドも、近くのローカルの街路樹も、まわりの桜という桜は満開なのに住んでいるアパートの桜だけは咲かない。まわりの摂理は進んでいるのに私を中心とした摂理は中折れ状態だと突きつけられた気分だ。確かに私は足踏みしている。食口達もいろんな問題を抱えたまま足踏みしているのかと思っていたが、みんなもそうなんだから自分も当然だと宙ぶらりん状態にあぐらをかいていて、進んでいる摂理が見えなくなっていた。いや、見ようとしなかった。60を超えた身でありながらまわりを評論し中心を批判している暇はないはずなのに、為すべきことを為したいと思えないまま未だに意志を備えられない自分がいる。やがて訪れる裁きの時、それは死を迎え霊界の現実をみる時かもしれないし、悲観に埋没して責任を放棄し完全な無気力になる時かもしれないし、はたまた世界経済が破綻して持ち合わせているものが何の役にも立たない時かもしれない。そんな思いをめぐらす時点で実は相当病んでいる。私が本当に統一精神を相続したのなら、現実の厳しさを十分味わいながらもそれでも一歩を踏み出すはずだ。叩かれても叩かれてもそれでも立ち上がるはずだ。果たすべき責任がどれほど大きかろうとその重荷を背負って歩き続けるはずだ。そういう自分こそ私の良心は願っている。枯れ落ちた花を無残にも踏みしめながら、やがて生い茂る緑葉を纏う桜の大木を見上げている。足下の褪せた花々の想いに報いるためにも、私は責任完遂のために歩き続けなければならない。

2017年3月16日木曜日

今日の想い 941

御母様に従うのは新しい信仰だとわりきるとしても、それが御父様に向かう信仰の在り様と同じであれば、やることなすこと裏目に出てきた過去の歩みと同じであって環境創造の御題目が地に堕ちる。先天は頭を持たない信仰だった。指示や命令はその言葉通り何の疑問も挟まれることなく手足としての任務を全うしてきた。献金ノルマを与えられてそれがどう使われるかに首を突っ込むのは御法度だった。新しい葡萄酒は新しい革袋に、、という聖句のごとく、新しい信仰は新しい価値観に拠るのでなければもたない。新しい価値観、すなわち旧来の意識や認識を変えていかない限り新しい信仰は保てない。もっとも変えるべき点は責任意識を持つということであり、先天では、付いていけば何とかなるだろう、救われるだろうという他力本願意識で環境創造とは程遠い内容で許されていたが、後天は実体を持たない限り責任を全うしたとはいえない。ある意味使い古された摂理だみ旨だという私達が使う言葉には、為し得ないものだという責任逃避の刷り込みが衣服の汚れのように染み込んでいて、今の今声高に叫び続ける意味はない。御題目の様に唱えながら結局は御父様まかせで勝利実感がないからだ。過去の歩みは大風呂敷を広げながら妄想に終始していたと言われてもしかたない。しかし御母様が願われるのは実にプラクティカルな内容で実践的であってこそ環境創造為し得る。ではその意識転換をどのようにするのだろうか。実は私達は意識転換のトンネルを今の今通過中だ。新しい意識で暮らす新世界への産道を通り抜けている。より早くに通過した者が環境創造に主体的に関与し意識を集中させることができるが、今の三つ巴とも言える混乱に溺れているのなら未だ産道の入り口あたりで入るのを躊躇し、いざ入るとしても先へ進むのをもがき苦しむ、そんな難産を覚悟しなければならないだろう。今こそ御母様が言われる「感謝します」という意志の大切さが強調される時はない。感謝感謝と口にしていれば感謝しているような、そんないい加減なものではなく、「感謝します」と「責任を持ちます」は同義語のように扱われるべき意志の言葉だ。「愛します」も同じようにその言葉には自ずと「責任を持ちます」という言葉が含まれている。責任意識がなければ感謝も愛も意味をなさない。修練会に参加して、祝福家庭は霊界に於ける位置が違うと持ち上げられて喜んでいるうちは、み旨も程遠く摂理も一向に前進することはないだろう。

2017年2月9日木曜日

後天開闢時代を主体的に生きる

原理の理解、御父様のみ言葉の理解だけで新しい創造の力が出る、宇宙を相手にできると思えるなら、そのように生きてそのように肉体を脱げばいい。しかし私は或る主体存在に対する対象存在である、すなわち生かされている存在だという自覚があるなら、主体核の位相が変われば私という対象核もそれに合わせて変わっていくという自覚もあるはずだ。しかし変わっていく、平たく言えば内的に、さらに霊的に成長していくということであって、主体核に合わせて変わっていくことは対象核としての喜びでもあるはずだ。御母様の言葉を受け入れられずに、すなわち御父様との霊的因縁に留まったままで果たしていいのか、それは御母様の胎から生れ出た私という自我を否定したまま生き続けることであり、それで良しとするならそこ止まりの位相であって実体圏に至ることはないだろう。実体圏に入ってこそ信仰のみでは得ることができなかった実感を得る。そして実感を得る段階こそ本当の意味での実体的環境創造が為され、実体的天一国が為されるはずだ。要するに環境創造への熱が湧き力が出るはずだ。産み直された自分の出所、すなわち自我の起源が真の父母だと、それが信仰としてではなく実感している者が果たしてどれほどいるだろうか。固定した信仰に留まったまま肉体を脱いで本当に天国の住人になれるだろうか。地上で解かれることは天でも解かれるように、地上で天国生活の実感を得てこそ天国の住人になれる。御母様を否定するサンクチュアリにつくことは新しい信仰であると思えるし、御父様を否定するかのような御母様につくのもまた今までとは異なる新しい信仰だとも思える。信仰に留まることで善しとするなら原理と御父様のみ言葉に辻褄が合うサンクチュアリに軍配が上がるのかも知れない。しかし信仰を超える、すなわち宗教を超えて環境創造という実体的結果を求めるなら信仰基台に留まるのではなく実体基台へと内的霊的にシフト変換しなければならない。ユダヤ教徒がイエス様を受け入れられなかったのは信仰に留まりユダヤ信仰に固執していたからだ。クリスチャンが御父様を受け入れられなかったのも信仰に留まりキリスト信仰に固執していたからだ。であれば成約聖徒が御父様御聖和の後、御母様の言葉を受け入れようとしないのも先天の信仰に留まり信仰に固執しているからだ。信仰基台から実体基台へとシフト変換すべきであるなら、宗教を超える、すなわち信仰を超えて環境創造できる実体的意識が要求される。それこそが後天時代を生きる新しい私だ。しかしそれは信仰を捨て去ることではなく、あくまで信仰を土台とし信仰を超えることだ。

2017年1月30日月曜日

今日の想い 940 (御母様の勝利圏)

御母様の勝利圏は、娘として勝利され、妹として勝利され、妻として勝利され、そして母として勝利されたその基台による勝利圏だ。娘としての父は御父様であられるし、妹としての兄も御父様であられるし、妻としての夫も御父様であられ、さらに母としての子も御父様であられる。その言葉が地上的に(一般的に言うなら具体的に)何を意味しているかは敢えて問わない。地上的に問えば御父様に対しては妻の位置に限定されてしまい、他の位置に対しては余計な勘ぐりを入れてしまうからだ。御母様の理解を超える様々な発言も、真の父母一体圏という言葉から連想される地上の父母のイメージに囚われているから理解できないのであって、真の父母一体圏は御母様の娘としての、妹としての、妻としての、母としての勝利を基台にした一体圏であり、敢えて言うなら御母様は御父様を実体み言葉存在として産みなおされた、ということだ。エバはアダムの肋骨から作られた、即ちアダムの中心部分を取り出してアダムの娘として創造され、アダムの妹として生活し、アダムの妻となり、アダムの母としてアダムを生みなおす立場にあった。しかしアダムの妻として勝利できずに堕落してしまい、母としてアダムを勝利的アダムに産みなおせなかった。アダムとエバが真の父母として勝利できなかったということはそういうことだ。アダムとエバが戒めを守り、教条的に生活すればそれだけで真の父母になれただろうか。御母様の勝利は楚々として御父様に付き従うことだけによって得られた勝利だろうか。妻として勝利された位置から母として勝利される過程は、御父様の御母様の否定から始まり神様が肯定せざるを得ない布陣(基台)を立てられた上で、御父様は母として御母様に屈服されて勝利された。真の父母の勝利圏とは世間一般に認識されている父母の通念とはその霊的成り立ちからして異なっている、と思った方がいい。そうでなければ御母様の発言は由々しき事として誰もが反御母様(分派となって血統圏に繋がらない)となってしまう。御母様の強気に取られる発言、御父様を否定されるかのような発言は、感情故に発せられた言葉ではなく、御父様を実体み言葉として産み直された真の母としての本質的発言だ。しかし食口のうちのどれだけが本質的発言として捉えることができるだろうか。それは私を含めて信仰段階に留まっており侍義の段階には届いていないからであり、御母様の本質が変遷していること、すなわち肉体は同じでも肉体に住まわれる位相が異なっていることがわからない限り侍義の段階には届かない。子の肉体が父親ではなく母親の肉体から来ているように、私の霊的生命、霊的習性、霊的生活が産み出された御母様によって成り立っているという自我自覚が信仰を超えたところにある侍義の段階だ。御母様が真の母としての自我の自覚をされたように、私は御母様の胎からでた存在だという新たな自我を自覚する。私の本当の環境創造はそこからだ。

2017年1月8日日曜日

混乱の中で新年を迎えて想う

多くの二世達が利口なのはよくわかる。しかし利口を全面に出して対処し行動するのは、霊的に見ればそれは小手先だけの力であって、霊的見地に立って物事に当たるのとは異なる。頭が納得しないと兎に角進めない、いつも自分の善悪基準に当てはめて批判が先に立つ、等は動機が本当に心情から発しているのかどうか自分を掘り下げて問うべきだろう。「真の父母様を信じています」「親によって祝福二世の相手と祝福を受けました」それだけで自分は祝福二世だと言えるだろうか。形だけでなく心情が伴っているだろうか。心情を相続せずに本当の意味で二世と言えるのかどうか甚だ疑問だ。一世は今度は二世達の利口さとは逆に、祝福に対する穿った観念が信仰と結びつき、祝福さえ受ければ天国に直行するものだと思い込んでいる。それはあり得ない。地獄に行かずとも、天国内という看板のついた痛みを味わう場所で多くの食口は留まるだろうと思っている。クリスチャンにとって罪を消されたかどうかは、キリストにどれだけ深く帰依するかによったように、成約聖徒にとって原罪が贖われたかどうかは、天の父母の心情にどれだけ深く繋がったかによっている。それはこの世の倫理的なものに沿っているようで実は沿っていない。孝進様がどの位置におられるかを問えば明らかだ。利口な者達が霊的見地に立つためには先ず、心情とは何なのか、心情にふれたことがあるのか、自分の中に心情が育っているのか、を問うところから始めなければならない。そうして小手先だけで自分の大部分は安全帯に留めたまま泥を被ろうとしない趣味的、あるいは道楽的歩みではなく、霊的見地に立って犠牲精神で物事に当たるようにしてほしい。一世は祝福に対する観念に支配されたままで、み旨や摂理に貢献したいという、御父母様に繋がれば当然心情動機として発せられる衝動が否定されたままでいる。要するに息子娘の形のみの祝福に思いがいって、その結果心情に繋がりにくいという迷路に嵌っている。そんな観念に支配されているから御母様の発言に対して信仰の動揺が起こってくる。今の天の願いは国家復帰であり世界復帰だ。その想いを本当に募らせた者達は御母様の言動につまずかない。逆に御母様は御父様を超えて強くあってほしいと思い、それでこそ国家復帰は為し得ると思える。私達は宗教の限界を超えなければならない。祝福という形、祝福家庭という形、祝福二世という形、など形に拘って本質を備えられない教条主義に陥るべきではない。御母様に対しても私達の御母様へのイメージから脱却しなければならない。御父様が神様から否定されながらもそれでも詰め寄って認められたように、御母様も御父様から否定されてもそれでも強く出られて認められる過程を経るのは、心情血統を相続していく者としての宿命でもある。それは堕落社会から見れば反逆に捉えられるのだろうが、本然社会からみれば発展的正分合だ。その意味においても、子供が親の言う通りに祝福を受けてくれたと喜んでいる者達がいるが、それは天の血統、すなわち心情相続が為される過程のことかどうかは別問題として意識しなければ、創造的発展とは言えないかも知れない。発展には必ずといっていいほど葛藤が伴うものだからだ。葛藤は犠牲の一面だ。そして犠牲を供えてこそ天の心情に繋がるのであり、そこで恨(ハン)という言葉が己の腑に落ちてくる。ハンがどれだけ強いかが復帰に対する執念として燃え上がるのであり、御父様は恨の塊であられたし御母様は更にその上を行っておられる。