2023年6月9日金曜日

逍遥から本殿に向かって 10.

食口の大きな関心事にアボジの数回の結婚(聖婚)とそれ以上の6マリアの問題がある。そのことに関して教会は数回の結婚に関しては認めてもいるし、その理由はそれなりに(それで全ての食口が納得しているかどうかは別として)摂理的状況的に説明されている。しかし6マリアの件に関しては、H2は認め、摂理的(?)に説明されてもいるが、教会は否定してその事実はないとしている。しかし大方の食口はそれでも事実だろうなとは言わずとも思っているし、何らかの摂理的理由があるのだろうと黙認している。今までの記事から察することができるように、私の理解はそのことを問い、問題視すること自体が間違っているという立場だ。性は社会性やその上での道徳観の領域外のことだからだ。結婚は社会性による判断が問われるとしても、性の問題は結婚観を超えている。敢えて言えば、6マリアは10マリアかも知れないし100マリアかも知れないし、さらにアボジが摂理観から論理的に理解してそういう行動に出られたとも思っていない。神霊に導かれるがままに(堕落のない本能的衝動のままに)為された夜の神様の主管圏内の話だ。そうなると私達が教えを乞う位相段階でありながら、とやかく口に出せる話ではないだろう。社会性道徳性を超えた性について、敢えて楔を打ち込んだのが血統転換としての三日儀式だ。み言葉を信じるとして、その上で放蕩生活に堕しようが、逆に生涯、一人の伴侶以外の関係を一切持たなかろうが、それで霊的血統が変わることはない。しかし唯一、三日儀式を通して霊的血統は変わる。さらに変わった後、相対関係が崩れるとしても、不倫などの問題を起こしたとしても、それで血統が元帰って堕落の血統になることも本当はない。と、私は確信している。そんなに性の習慣性や性の一過性の過ちで血統が行ったり来たりするなら、祝福も三日儀式も地上のこの世の主管圏から脱せず霊的意味はないからだ。

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