2023年6月16日金曜日

逍遥から本殿に向かって 15.

 歴史は夜創られる。創世記に「夕となり、また朝となった」とあるように、天地創造は夜構想され昼に構想通りに展開された。夜、すなわち夜の神様による構想が創造だ。宇宙はそうして夜の時期と昼の時期を交互に繰り返してきた。人間も同じで夜と昼を繰り返しながら日々を送っていく。そして同じように人間も夜創られる。意識ある昼に経験したものを夜の無意識圏に届けながら、それを踏まえて新たな創造が為される。本来、性は昼の意識圏内、すなわち昼の神様の範疇になく、夜の神様が主管する範疇にあった。その一つの意味として五感を歓ばす動機で性に向かうのではなく、創造的動機があって性に向かうのが性のあるべき本質だ。アダムとエバは、まだ夜の神様の手の内にあるべきものを早々に昼の領域に、すなわち性を中途半端に意識圏に降ろしてしまった。もはや性を通しては創造の神々の居る神界にまで昇っていくことはできなくなった。それはやがては霊界をも見届ける感性すら無くなっていった。性は昼の神様の領域にあっても、この世の神サタンが人間の五感を通してサタンの触手を伸ばす、すなわち罪の繁殖という悪の秘儀に使われてしまうことになる。善なる創造の秘儀を悪の秘儀に使われたというのが、堕ちた天使長たちを介する堕落だ。これを取り戻す、すなわち復帰にどれほどの年月を要してきただろうか。み言葉認識に多くの誤解があるとしても、それでも食口は堕落の意味を表面的ではあっても知っているし、サタンが嚙みついて放さない性の忌まわしさも知っている。しかしそこで認識が止まってしまい、堕落圏を超える創造領域にまで性の在り様を変えることができる後天時代なのに、未だにその絶対の認識を無視しているのは、私達の何が不足でアボジの真意を尋ねることもなく夜の神様へと繋がらないのだろうか。それ以前の問題として、祝福家庭が堕落のない霊を分けて戴いているにも関わらず、罪人に口なしの体制が続いて主体性すら取り戻していない。

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